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正岡子規の「葬儀」【歴史から見る生前整理】

明治時代の俳人「正岡子規」

『柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺』
など、数多くの俳句や短歌を残すだけでなく、その分野において大きな革新を起こし、中興の祖となった偉人です。

子規は、愛媛県松山市に生まれました。
21歳の時に結核を患い、28歳には脊椎カリエスを発症。自分は長く生きられないと悟った子規は、新聞「日本」を主な媒体にして俳句革新に着手。病と闘い続けながら、「俳諧大要」「墨汁一滴」「病牀六尺」を次々に連載するなど、大いに健筆を奮いました。
34歳という若さで亡くなりましたが、その亡くなる数時間前までも句を詠み続けたそうです。
なお、「子規」は俳号で、ホトトギスという鳥を指す言葉に由来しています。(ホトトギスは、のどから血を流して鳴くという言い伝えがあり、結核を患って喀血を繰り返す自分に、そんなホトトギスの姿を重ねていたと言われています。※本名は「正岡常規(つねのり)」)

その子規は、自分が死んだ後の葬儀について、次のような希望を書き残していました。

葬式の広告など無用に候。家も町も狭き故、三十人もつめかけ候はば柩の動きもとれまじく候。
何派の葬式をなすとも柩の前にて弔辞伝記の類読み上候事無用に候。
戒名といふもの用ゐ候事無用に候。
自然石の石碑はいやな事に候。
柩の前にて通夜すること無用に候。
柩の前にて空涙は無用に候。談笑平生の如くあるべく候。

その他にも、「火葬はしたくない」とか、石碑に彫る文字のサンプルを示すなど、葬儀以外の希望も多く残していました。

なお、子規の詠む句の特徴は、
物事を見たままありのままに表現しようとする「写生」の手法でした。
子規は自分の中に、自分の葬儀の情景がはっきりと浮かんでいたのかもしれません。

こうした子規の希望を反映し、実際の葬儀は行われました。
ただ、新聞の死亡欄などで知った人も集まったため、会葬者は150人ほどになったそうです。

最近は、葬儀の多様化とともに、葬儀社に「生前見積」をしに行ったり、自分が生きているうちに「生前葬」を行うなど、自分の葬儀のことを考える人が増えています。
葬儀について希望を残すことは、大事な自分の意思表示となります。
葬儀社もその心を汲んで、どんな希望にも添えることができるよう柔軟に対応してくれる所も増えました。
一度、自分の葬儀をどのようにしたいのか、考えてみてはいかがでしょうか?
是非、葬儀にも自分の思いを込めてみてください。

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