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白洲次郎の遺言書【歴史から見る生前整理】

白洲次郎は、吉田茂の側近として、太平洋戦争で荒廃した日本の復興のために活躍した人物です。
本が出版されたり、映画やドラマなどでも度々取り上げられています。

白洲次郎は、1902年(明治35年)に兵庫県芦屋で生まれ、子どもの頃は乱暴者で癇癪持ちで傲慢。
しかし、9年間のイギリス留学生活で、英国流の紳士道を徹底的に叩き込まれ、日本に帰国した時には、生まれ変わった人物であるかのようになっていました。

その後、吉田茂と出会って交流を重ね、
親子ほどの年の差があるにもかかわらず、お互いにずけずけと思ったままを率直に話し、「このやろう」「こんちくしょう」と罵声が飛び交うこともあったそうですが、ともに深く信頼し合う気の置けない仲となりました。

昭和15年になると、次郎は、「アメリカと戦争すれば日本は必ず負ける」と断言して会社を辞め、東京郊外の鶴川で農業を始めました。
食糧難に備えてのことだったらしく、戦時中は自分の畑で採れた野菜を知り合いによく配り歩いたそうです。

戦後は、首相となった吉田茂に請われてGHQとの折衝にあたりました。
次郎は、最高司令官のマッカーサーを含め、どのGHQの高官に対しても、持ち前の英語力と交渉力で、はっきりと言いたいことを言う態度を取り、
GHQ側からは「従順ならざる唯一の日本人」と評されました。

80歳になるまで、好きなポルシェ911を乗り回したという白洲次郎。
1985年(昭和60年)11月に83歳で亡くなりますが、
残した遺言書には、勢いのある文字でたった二行だけ書かれていました。

「葬式無用」
「戒名不用」

白洲次郎は、その生涯を通して、
「プリンシプル(原則)に忠実」という信念を貫きました。

また、「困っている奴は助けるもんだ」と言って、人助けに余念がなく、お礼に金品を持参したりすることがあると、「馬鹿野郎、俺は大金持ちなんだ。そんなものもらえるか」と怒鳴りつけることが常だったというエピソードがあったり、
「人に好かれようと思って仕事をするな。むしろ半分の人間に嫌われるようじゃないとちゃんとした仕事はできないぞ」という名言なども残っています。
(※雑誌のインタビューで「あなたの欠点は?」という質問に、「思ったことを率直に言うこと」と答えたそう)

まさに自分の信念を貫いた人生だからこそ書いた遺言書ではないかと思いました。

遺言書には、財産をどうするかだけを書くものというイメージがありますが、
家族へのメッセージや葬儀などに関する希望など、自分の思いも書くことができるものです(※この記載事項を「付言事項」といいます)
是非、遺言書を書いてみようと思った時には、併せて「付言事項」も書いてみてください。
自分がこれまで生きてきた人生とともに、自分の思いを振り返ることにもつながることでしょう。

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