「先生の説明がわかりやすい」の落とし穴
今日は生徒の「説明が分かりやすい」の言葉に満足してませんかと言うお話。
この記事を書いている人:
現職教員としてはたらく20代。教育改革や職場改革に奔走するも、心身不調により休職経験あり。教育についての自分の経験や科学的情報、心身安定に関する情報を発信しています。
考えのきっかけは生徒の言葉
先日、久々に生徒の前で授業をしました。
めちゃくちゃ緊張しましたし、復職後1発目だったので、自分の精神状態がどうなるかと言う心配点もありました。
しかしふたを開けてみれば、まるで休職していた事はなかったかのように流暢に口から言葉が飛びだし、その瞬間を大いに楽しむことができたように感じます。
特に自分の心を踊らせるてくれた、生徒の言葉がありました。
先生の説明わかりやすいね、考える時間が多いのが大変だけど!
これは先生に受けた言葉と言うよりは、友達同士で話してるところをたまたま耳にしたものです。
教員に褒められようとするわけでもなく、自然な言葉だったので、教員冥利に尽きるなぁと思って嬉しくなったのでした。
説明がわかりやすい=疑問が生まれない
しかし同時に、休職以前からの自分自身の課題感も思い出すことになったのです。
それは説明がわかりやすい=疑問が生まれにくいと言うことでした。
ありがたいことに生徒から、説明がわかりやすく楽しいと言う言葉をいただくのは今に始まったことではなく、新任から3年目位になって言われ始めてきた言葉でした。
しかしながら、いざテストや模試等授業の定着度を確認する場面になると、自分が考えていたよりもあまり定着していないように感じる結果の方が多かったんです。
ここから私は1つの仮説を立てました。
それは、説明がわかりやすい=生徒がわかるようになった・できるようになったわけではないと言うことです。
目的は、生徒が自立して学びを深めること
そこではっと気づいたのが、説明がわかりやすくどんなに教員がたくさんインプットをしても、結局生徒が主体的にもしくは仕組み的にアウトプットを増やしていくような形をデザインしていかないと、最終目的である自立して学びを深める生徒を育てることに近づけないのではないか。
だから、問いを自ら考える時間、ペアで話し合う時間、また自分で振替の時間と言うアクティブラーニング的な要素を取り入れています。しかし、まだまだ教員である自分の説明の部分に無駄な要素が多く、ついつい授業時間ギリギリまで話してしまうこともあります。
もう少し意識的に伝えたい事はシンプルにできるだけ一回でまとめること。
そして生徒がアウトプットする時間を作るほうに注力すること。
その際は少し説明が物足りないんじゃないかと思ってもまた生徒を信じてやらせてみること。
その様子を見てまた説明を増やしたりもっと部屋減らしたりなど微調整を継続していくこと。
これがこれからの授業にとっては大切なんじゃないかなと考えています。
とは言え、説明がわかりにくいがOKではない
ただ語弊がありそうなので付け加えておくと、決して教員からの説明がわかりにくいのが良いと言っているわけではありません。
やはり端的にコンパクトに伝えるためには、その伝えている内容自体はわかりやすくまとまっている必要があると思うからです。その上でさらに生徒にアウトプットをさせる時間を作るというのが本筋です。
ただ分かりにくい説明を短時間にされたところで、生徒は本当に何もわからないところからのスタートになってしまいます。やる気も削がれてしまうと思いますし、その後のアウトプットの質も上がらない。
やはり結局はバランスなのかもしれませんね。
🖋あとがき
ここまで記事を読んでくださった方、ありがとうございました😊
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