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『文字』を与えたい男

 たった数文字が、何故こんなにも悩ましい。
ほんの数文字に、どれだけ愛を詰め込みたい。
洗い物をする妻を早めに休ませ、私は今日何冊の文献を漁っただろう。何回検索しただろう。
それでもなお、君に与える文字というのは、何か期待をさせすぎても重荷になってしまいそうだし、軽々しく決めたくもない、そんな思考をぐるぐると巡り巡って、結局のところ良い案というのは未だ浮かんでいないんだ。

 明け方になって、私が冷蔵庫から麦茶を取り出す音で目を覚ました妻は、机に散乱した数冊の本と、ノートに隙間無く埋められた文字を見て、クスクスと笑った。何故だかそれに、慰めの意図を感じた私も同様、乾いた声で笑う。
この文字達が、そんなに重要かしら?
自分のコップを取り出した彼女は、椅子に座り込んで、私の目を見てそう言った。

分からない。
でも、考えたいんだ。悩みたいんだ。
それが、我々の役割だと思ったんだ。
机のコップに麦茶を注いでやると、彼女はそれを美味そうに飲み干した。そんな喉を鳴らす音にさえ天啓を求めていた私は、彼女の顔を見た後、その視線を君へと降ろした。

 自らに与えられた文字を考えた。親は、今の私と同様、眠らない日々が続いたのだろうか。それにしては余り気が利いた物では無いと思うが、想像した彼等の悩ましい姿から、此方へ強く訴え掛ける声がする。


いつか俺の身長、体重も抜いてしまうだろう。
生きがいを見つけて、君は自分に意味を見出すかもしれない。大切な人が出来て、命に代えても守りたいと思うかもしれない。そして、俺達の事など、忘れてしまうかもしれない。
それで良い。例え何があっても。
ただ元気でいてくれれば、それで良い。

結果として、私は親の事を忘れた事はない。

 ペンを片手に思考する私を、妻と君が一緒に見ていた。どうやら君は、笑っているらしい。元気に飛び跳ねて、妻を困らせているらしい。
あたしね、思うの。
本当に与えるべき物は、文字じゃなくて––
彼女はそう言いかけて止めた。何を言いたいかは私にも分かっていた。そしてその言葉には、偽りも、誤りも無い。ただ本質を捉えていた。

 電気を消して、寝室のベッドに寝転がった。
窓から光が差し込んで来て、我々の顔を強く照らした。妻は目を細めながら、此方に尋ねる。
「名前、思い付いたの?」
「まぁね」
微笑む彼女と君を抱いて、私はひとときの眠りに入る。昼起きた頃には、君に名が与えられているだろう。でも、重要なのはそれではない。
文字が孕んだ意味、形、リズムなどではない。
本当に大切なもの、命に代えて守りたいのは、君だ。

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