華火116

 遥かなる未来の想像というのは、我々が辿ってきた数千年の歴史を想うより、いくらかは楽なものである。葛西教授は、まるで課題に手をつけようとしない私に向かってそう言った。
 ボードに描かれた様々な風景画、それは彼が創造した新世紀であった訳だが、当時十歳にも満たない少年には理解出来るはずもなかった。
「陸を離れ、空を目指す人類において、困難なのは水、そして食糧の確保だ。我々は天にまで届く太いチューブを介して海から水分を抽出、濾過の過程を経てやっと蛇口から飲水を得る。食糧はどうだ? 君、何か言いたまえ」
「......空には鳥がいます」
「うむ、その通り。しかしながら、それだけで百億人まで増えた人類の胃袋を賄えるかな?」
「地上に食糧を求め、派遣軍が出るでしょう。最近はニュースで各国の軍隊が出動して......」
 突然、なにかが破裂するような音が鳴った。教授が、出席簿をボードに打ちつけたのだ。
「彼らは、何もしてくれんよ」
 諦め返った声に、私は酷く怯えてしまった。補修授業はそこでお開きとなった。彼の静かな呟きは、若き心に何かを根付かせたのだった。


 夢をみていた。遥か未来への希望を秘めた、まだ冗談も言えぬ少年だった頃の夢を。空には深い群青の世界が残り、所々に刻まれた白濁色の爪痕、それらを背後から照らす眩い陽の光。
ベランダに出た私は、それらの穢れも知らない表情、まるで遠方にたたずむキャンバスのような光景に手を精一杯伸ばしたのだった。頬を流れる汗など気もならずに。
 駆け登るようにして宙を裂く閃光。川縁に立ち尽くす私が唾を飲み込んだと同時に、それは想像を絶する破裂音を鳴らして散った。空は無数の色彩を帯びて、隣に座る母を優しく包む。私がその光の群れを「花火」というものだと知ったのは、二十五歳の頃だった。
 あれからどれだけの時間が経ったのだろう。容易に分かるはずのことが、脳より抜け落ちていく感覚。皆はこの現象を頭病と呼んでいた。
 以前、葛西教授が語った世は訪れなかった。たしかに人は空へ向かい、地を捨てたものの、大気の水蒸気より抽出した水分にて喉を潤していた。廃棄物より抽出した油分にて腹を満たしていた。人工配布食料、正式名称は影に隠れてしまい、若者が「配食」という呼び名を付けることにより世界に広く浸透していく.....,。



 一般車両の減少、航空車の増加にともなって改正された航空法は、そこから我々の生活圏が地上から離れていくことを表していた。
 高度住宅から航空車に乗り、地に足をつけることなく職場へ向かう人々。運転中に下界を眺めれば、朽ちた施設を覆い尽くす電線の数々。我々が垂れ流した排気ガスは、視界を遮る霧のようにして高度生活圏に渦巻いていた。
「今年の夏は猛暑になるようだから、校庭に出るときは帽子を被るように。冷却クリーム類は必ず手元に置き、授業間の休みごとに塗り直すこと。それから、下校時の混雑について近隣住民より苦情が入っています。免許を取った生徒が、航空車で通学しているのを目撃したなどという話も聞きますが......」
 ホームルームを終えると、生徒たちは皆一斉に声を上げ始めた。誰もが見慣れた光景だ。
「暑いなぁ、ちくしょう。誰かクリーム持ってないか。こんなときに切れちまってやがる」
「誰が免許持ってるの? わたし、一度でいいから富士の火口を覗きに行きたいんだよねぇ」
「馬鹿、富士火口は接近禁止なんだよ」
「夏休みにさぁ、皆で鎌倉スパに行かない? 地下から高度にまで温泉を引いてるのは、そこだけらしいよ」
 過去の葛西教授がした様に、私もなにくわぬ表情で出席簿を手にした。しかし、黒板に打ち付けるまでには至らない。......時代が変わったのだ。彼らは、過去を知らぬ。進歩を知らぬ。それを教えてやるのは、教師の役目のはずだ。誰でもない、私の仕事なはずだ。
「我々は......」
 ふいに大声を上げた教師に、生徒たちは皆黙ってしまう。そうだ、私も学生時代はお前たちのような調子ばかり良くて、その実態は右も左も分からぬ生徒だった。先のことなど想像もしないただの十代だった。
「我々が、地を捨てて早くも二十年。しかし、空に慣れない者はいまだに過去の遺産にすがり今を蔑ろにしている......。ニュースを見れば分かることです。地に憧れて空を軽視し、穢れた地表に夢を抱き続けるのはよしましょう」
 生徒は皆黙ったまま、窓の外を見た。貿易船や私用車、すべての輸送手段が空へ移った以上彼らに何が言える訳でもなかった。
 ──しかしながら、私は寂しかったのだ。誰かが声をあげるのを待っていた。違う、違う、俺たちの現在はこうではない、こんなはずはないのだ、と。

 

 診療所に群がる人々を眺めていると、すべてを投げ出してしまいたくなる衝動に駆られる。我々人類が空を汚した代償とでも言うのか、宙に撒き散らした排気ガスの影響により、誰もが肺機能に問題を抱えていた。角膜、消化器官に異常を覚える者は手に余るほどいて、酷い者は血液の入れ替えを必要とする場合もある。しかしながら、病人だらけの高度都市に、まともな医療機関のなんと少ないことだろう。
「お偉い派遣軍の連中がな、若い医者をみんな徴兵なさる。地表の調査か何か知らんが、戦争がない世の中においても、人手は足らんちゃ」
 以前、診察を受ける際に、老医師がその様な愚痴をこぼしていた。早朝から深夜まで働き詰めなのだろう。彼の白衣は垢や汗で変色しており、瞳にはわずかな光さえ感じられなかった。
 私が帰宅すると、妻は椅子に座ってある一点を見つめていた。どうやら、裁縫箱の留め具に目を奪われていたらしい。どこで購入したかは記憶にないが、確かにその装飾から発せられる煌びやかな光沢は、高度生活圏内において貴重な物だった。
「貴方、また診察を受けずに帰って来たのね」
 姿勢を変えることのない妻が、そう呟いた。
「薬はまだ残っているんだ。この数日間は安定しているし、少しくらい問題ないさ」
「そう......。昼に、学校から連絡があったわ。航空車で登校した生徒が、貴方に免許を取り上げられたと言って騒いでいるみたい。父母会も議題に取り上げる準備をしているそうよ」
「車に乗ってくる生徒が悪いんだ」
「でも、それで後ろ指を刺されるのは、決して貴方だけではないの。あたしのことも考えて」
 席を立った彼女は、結局こちらに一瞥もくれぬままに自室へと戻っていった。居間の隅にて固まった私は、ドアが閉まる音を聴いてやっと一息ついた気持ちとなる。

 誰が悪いのだろう。生徒だ。そうでなければ派遣軍が悪いのだ。いや、諸悪の根源は地表を穢した先人だ。そこからすべては狂い始めた。離れるべきではなかったのだ。いくら脳が発達しようとも、我々の本質はか弱き生物だ。地を離れるべきではなかったのだ。離れるべきではなかった。離れるべきではなかったのだ。離れるべきではなかった。離れるべきではなかったのだ。決して、離れるべきでは──。


「教授、人類はやはり空へ向かう事になるのでしょうか」
「そうなるだろう。君達の世代には申し訳ないばかりだが、この数千年の間に溜まったツケというものは、どうやら簡単には拭えんらしい」
 ボードには、いつもの風景画が。葛西教授は懲りずに未来の世界を創造しようとしている。夕陽は、窓から見える校庭や貯水塔を照らしていたものの、室内の我々に暗い影を落とした。
「君の様な問題児でも、寂しいと思う心があるのかね」
 教授は電灯を点けようとはしなかった。そのせいで、私は彼の表情を捉える事が出来ない。
「僕ではありません。この身体を流れる血が、ただ地表の美しさに感じ入っているだけかも」
「たとえどの様な世界に身を置いたとしても、大事なのは人としての在り方だよ。荒んだ環境で、酷い環境で、そんな過酷な生に塗れたとしても、君は決して自らを滅ぼしてはならない」
 ──分かりません。意味が、分かりません。
「教授、どういう意味でしょう」
「......今日は祭りの日だね。お母さんでも連れて、隅田川に行ってみなさい。世界の歩幅は、君が思うよりもずっと大きいものだよ」
「歩幅、ですか」

 そして、駆け登るようにして宙を裂く閃光。川縁に立ち尽くす私が唾を飲み込んだと同時に想像を絶する破裂音を鳴らして散った。空は無数の色彩を帯びて、隣に座る母を優しく包む。
 ──花火だ。地を穢し、航空法の改正により宙を舞う事のなくなった色彩の群れだ。これらの代わりに人類は空を支配し、管理し、やがてその広大な空をも穢してしまうに違いない。



「旦那さんは、頭病の風に当てられたんです。熱が引いたら帰って頂いて結構。しかし、薬はしっかり服用させるべきですな」
 重い瞼を上げた。薄暗い病室の中に、妻の姿を捉えた私は、無理にでも身体を起こそうと手に力を入れた。
「また、やってしまったんだね」
「ええ、今回は裁縫箱がバラバラになるだけで済んだけど、薬は飲まなくちゃだめよ」

 妻から渡されたコップには、濁った水が溢れんばかりに入っている。一度目を閉じると、それは無色透明な液体に変化し、次に目を閉じると、やはり薄茶色に濁った水に戻ってしまう。
「お医者様がね、教えてくれたわ」
「何を?」
「貴方、気が触れているって。正気ではない、酷く窮屈な世界で生きているって。いつかは薬も効かなくなるかもしれない。また、我を失って暴れ出すかもしれない。頭病の変異だって」
「馬鹿らしい。頭病なんて、思い込みの......」
 そこまで口にした瞬間、妻は机に置かれていた花瓶を思い切り払った。目線の下で、物が割れる音がした。或いはそれが、夫婦の関係性に与えられた傷だったとしても、私に許容できる体力は残っていなかった。
「生きていくしかないじゃない! あたし達はそういう世界に足を付けて生活しているの!」
 再び目を閉じた。開けたくはなかった。数秒か数分か、数時間かの経過の後、私の狭い視界に妻の姿はもうなかった。



「知っての通り、航空車が普及した今となっては、航空法の改正により様々な物が規制されています。例えば、打ち上げ花火......」
「花火?」
「そうです。旧世代においては各地区の裁量で可能だった事も厳しく禁止されています。手軽に製造出来る三号玉にしても、その距離は約百十六メートルに及びます。去年、九十九里浜の上空において、密造花火が打ち上がった問題は記憶に新しく......」

 喋れども、喋れども、生徒達は私の方を向かない。そればかりか、先日の免許取り上げについての抗議的な態度さえ思わせる彼等の目線。しかし、生きていくしかないのだ。妻が語った通り、どの様な世界においても従順に生きていくしかないのだ。
 一週間が経ち、一ヶ月が経った。妻はいまだ私の前に姿を見せなかった。通信電話も繋がらない。愛想を尽かされたのは明白だった。それでも、私は生きていかなくてはならなかった。ニュースでは、派遣軍が新たな地下水脈を発見した話題で持ちきりだった。記憶が正しければこの手の報道は、数年おきに世を騒がせ、いつの間にかなかった事にされている。噂によれば派遣軍が裏で利権を独占し、富裕層が集まったコミュニティに飲料を卸しているらしい。真実など分からない。誰も分かりやしない。
 ただ私が認識しているのは、自らが世に適合しない、捨てられた人種という事だ。


 その日は補修授業のため、遅くまで教室に残っていた。ただ一人で補修を受けるのは、私が免許を取り上げた男子生徒である。やはり彼は不服そうな表情を浮かべ、時折私の方を向いて睨み付けていた。
 彼の免許を没収して一ヶ月が過ぎている。この補修が終わり次第、返してやっても良いと考えていた私ではあるが、少年の強い眼差しに当てられると途端にその気がなくなってしまう。
「君は、私が嫌いなんだね」
 ふいに口をついた言葉。大人気ない性格。
「はい、嫌いです」
「ならば、学校など辞めちまったほうが良い。嫌な環境で生きていくなど、無駄な事だろう」

 生徒は黙っていた。私はそんな彼の姿を見て苛つきを覚えたのだった。──辞めちまえば、去ってしまえば、すべて楽になれるのに、何故お前は意固地になるのだ。互いのため、互いの存在を忘れてしまおうではないか。
 夕陽が窓から差し込んできた。あと少し経てば教室に闇が訪れる。私が教科書を適当に開いた瞬間、窓の外より誰かが叫ぶ声がした。
「おぉい! 準備が出来たぞォ」
 生徒は、待ってましたと言わんばかりに、鞄を肩に下げて教室を出て行こうとする......が、彼は何を思ったか、ドアの前で立ち止まった。
「そのまま帰っても構わん。君が困るだけだ」
「先生、僕は学校を辞める気はない。どれだけ貴方が嫌いでも、僕はこの世界で生きなければならないのですから」
 思い上がりだ、そう思った。私は彼が教室を出る前に、激しくドアを開いて廊下を歩いた。この様な世界、生きてどうなるのだ。誰が我々を救ってくれる。派遣軍共か? 富裕層か? 結局、皆この世界で従順に生きる事など出来ないのではないか。だから、離れるべきではなかった。人類は離れるべきではなかった。離れるべきではなかったのだ。離れるべきではなかった。離れるべきではなかったのだ。離れるべきではなかった。決して、離れるべきでは......。

 意識が自らの心を離れた。ただ一人で歩いた廊下、校庭を見下ろす窓より、私の鼓膜を激しく振動させる色彩が放たれたのだった。
 美しい閃光。そうか、これはいつの日にか、母と共に眺めた花火だ。無限にも思える色彩をともない、宙を駆ける花火だ。命が弾ける瞬間それは世界を光の中に閉じ込めてしまうのだ。距離は約百十六メートル、校舎を見下ろす位置にて叫んだあれは、確かに四方に散乱した光の粒だ。これこそ、花火なのだ──。
「わぁ、ざまぁみろ。偉ぶりやがって!」
 校庭では、数人の生徒がこちらを見て叫んでいた。叫び狂っていた。しかしながら、彼等の瞳に灯った色彩は、やはり私への嘲笑などではなく、自らの手で打ち上げた輝かしい閃光にこそ当てられているような気がするのだ。

 ──君は決して自らを滅ぼしてはならない。
「......もしもし、君かい。今さらだけど、謝りたいんだ。僕が間違っていた。僕は窮屈な世界になど生きてはいなかった。自らで窮屈な世界に閉じこもっていただけなんだ」

 そして、たとえどの様な世界に身を置いたとしても、大事なのは人としての在り方だという事にようやく気が付いたのだ。たとえそれが、排気ガスに塗れ、花火を見上げる事が出来ない世界であるとしても。

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