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さらば、名も無き群青たち(7)

 熱が引くまでに一週間、熱の花が治るのにもう一週間を要した春風邪は、元より世間との隔たりを感じさせていた僕を、更に奥まった場所まで追いやってしまったらしい。

 数人の友人からは、ある時を境にさっぱりと連絡が途絶えてしまい、稀に姿を見せるのは、病人に自らの悩みを相談しにやってくる斉藤君くらいであった。彼が手に下げる袋の中、スポーツドリンクや菓子類、カップ麺などの非常食については、台所に保管された後、数日後に訪れる彼の胃によって消化された。さながら斉藤君の為の、斉藤君の手による貯蔵庫と化した僕の部屋は、それでも何の変化もない殺風景な環境である事に違いなかった。窓辺から見える木々や人並みだけが、季節に即した歩みを見せている様な気がした。


 二週間振りに入ったバイト。春の陽気にやられた小さな蕎麦屋でも特に何が変わる訳でもなく、こちらを見て「少し痩せたわねぇ」と哀れな目で呟く女将さんを除けば、誰も僕が風邪を引いていた事には気にも留めない様子である。

「そっちが治れば今度はこっち。若い子はどこで病気を貰って来ちゃうか分からへんなぁ」

「こっち?」

「ウチの娘もね、一昨日から高熱出して寝込んでるんよ。あんたら二人して仲良えこと」

休憩中、誰にも気取られない様に階段を上がった僕は、木の軋む音に多少の不安を覚えつつ、彼女の部屋の前に立った。小さく響く数回のノックは、どうやら意味をなさなかったらしい。ドアを軽く押せば、それは容易く開いた後に、大いなる背徳感を連れてきた。
 寝間着を来た彼女は、目を閉じて布団に寝転がっていた。額には熱冷ましシートを貼って、安らかな表情をしているものの、細い手足は布団から放り出されている。
 先日この娘が見せた表情、こちらの目を覗く様にして言った言葉、そして風邪が移ってしまう程にその身を寄せて来た真意というものに、僕は戸惑いとは別の感情を抱いていた。無意識の内にも斉藤君の訪問に断りを入れたその行為を以て、自らの想いに気がついた。
ガキではあるまいし、なに見て見ぬ振りをしているのだ。
そんな自虐的な思考の中、見渡した彼女の部屋はやはり物が少なく、どこか殺風景であった。意図してそうなったのか、家庭の事情で致し方ないものなのかは分からない。


 薄ピンク色に覆われた奈良公園は、花見の場所取りをする大学生、興味深そうに鹿を見つめる外国人、穏やかな老夫婦を除けば、挙動不審で若いカップルの姿を探そうとしている僕は、変質者と思われても仕方がないものである。
『都市公園 来訪ペア数調査記録』
用紙に印刷された仰々しい題目の通り、公園付近及び園内におけるカップル数のカウントをするこのバイトは、給料も安く、また結果が何に利用されるのかすら把握出来ないままであったが、その業務内容の気楽さが気に入っていた。
 先輩から紹介された当初、斉藤君と二人のんびり散歩気分でこなしたバイトであったが、彼が高額な時給を求め、奈良公園より姿を消した後は、僕はただ黙々と流れ行く人々を観察するという、どちらにせよ暇潰し程度のものでしかなかった。

 風が強く吹けば、辺り一面に散らばる桜。記入用紙を埋める花びらは手で払ってしまわぬ限り、延々と積もっていくのではないかという気がした。それは人の悩みを連想させ、僕の現状を実感させる。各々の桜が思い思いの方向へ散らばる中、僕の着地点というのは未だぼんやりとした物で、それに何の違和感なく生を全う出来るであろう自らの生を恨んだ。
責任転嫁––
薄暗いホームにて出発時刻を待つ蒸気機関車は未だ身体を動かす事が出来ない僕に、幾度もなく汽笛を鳴らしている。他の乗客は、いない。


 「もし寝てたら、起こしちゃってええよ」
女将さんはその悪戯っぽい笑みの中に、妄想と好奇心を詰め込んでいた。袋に詰まった飲料や食料をなんとか二階まで運ぶと、先日と同じく軽くノックをする。僅かな間を置いてドアが開けば、寝間着に袖を通した彼女は、以前の僕同様に気の抜けた表情でこちらを見ていた。
「あっ......」
唯一違うのは、僕にまだ心の準備が出来ていなかった事である。

「どうしたの?」

「見舞いの御礼、持って来たから」

「持って来たって......実家に住んでるから、別に必要ないのに」

確かにその通りだった。僕はいつも、物事に対する思考が足りないらしい。

「それに、受け取ったらまた御礼に行かないといけないじゃない......でも、ありがと」

「お返しはいいからさ。これで終いにしよう」

「......心配してくれてたの?」

「僕が移したのは間違いないからな」

「ふうん、それだけ?」

そういってまたもや僕の目を覗き込む彼女は、弱々しくも生気を絶やさず、何かを強く決心している様な据わった瞳をしていた。こちらが一瞬答えあぐねていると、彼女の興味は別の物に移ってしまった。
 ゆっくりと伸ばす細い手。僕の頬を掠めて、右肩に優しく触れる指。一連の動作の後、その手のひらに乗っているのは、奈良公園で付いたのだろう、薄いピンク色の花びらだった。
「ここまで持って来てくれたのね」
その桜を愛おしそうに眺める顔は、いつもの気丈な姿勢は消え、どこかあどけなく哀しげな表情を含ませている。

「私、夏に東京でオーディションを受けるの。もし上手くいったら......」

「ここへは戻って来ないの?」

「そうね」

「きっと上手くいくよ。応援してる」

「......ありがと」

我々はただ互いの表情を探るだけだった。何かの拍子に僕の身体は動いてしまいそうになる。僕の口が開きそうになる。だが、それを抑制しているのは、恐らく自らの至らなさだった。

「なんで私が生きているのか、なんとなく分かった気がするの。横になって色々と考える内に、答えを掴んだ気がするの」

「......」

「だから私ね、東京で答え合わせがしたい」

熱からか、彼女の目は溶けている様に見えた。それでいて、こちらを見つめるその顔は、若干の不安を孕んで僕の心を見透かしている。
「ねぇ、聴こえない?夏の寄ってくる音が」
群青の色彩が、春空の遠く向こう側、薄い雲の切れ間より顔を覗かしている様な気がした。


 あれだけぶつぶつと文句を言っていた斉藤君だが、寄りを戻すと容易く惚気話を口にする辺り、彼の春は当分終わりそうにはなかった。従兄弟の紹介で観光業関連のバイトをしていた彼だが、急に図書館に出入りする様になったと思えば、環境保全協会の講習などにも参加しているらしく、そんな自主性だけを見ていれば、彼の思考の跡を僅かに感じる事が出来る。
『九州、沖縄のサンゴは年々数を減らす一方であり、十年後に見られる––』
そんな記載がある書物を僕の家に持ち込んで、未だ無くなる事のないカップラーメンを啜りながらぶつぶつと何かを呟く彼の姿は不気味であり、地に足を付けていた。
「カナがうるさくて、勉強出来へん」
こちらからの真っ当な意見を、彼は同棲を始めた彼女を理由にして遮ってくる。

「もうすぐ夏が来るなァ」

「大袈裟だなぁ。放っておいても来るんだよ」

「でもな、今年の夏は特別やねん」

そうやって、取り巻く環境の変化に乗り遅れない様に、皆忙しなく時計の針を巻いていた。彼女と彼が、その胸を染める色彩を自らの物にしようとしている中、鬱蒼とした僕の瞳の色合いは、未だ何にも混じる事なく留まっている。

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