さらば、名も無き群青たち(5)

 どちらともなく吐いた白い息が、冬の冷たい風に乗って、背後の朱雀門まで飛んでいくかのように思えた。普段、紅色に塗れたそれは、その骨組みに色を残しつつも、屋根に積もる雪、角張った姿形を白に置き換える事で、周囲の環境に適応していた。順応していた。入り口から真っ直ぐ門の横を抜けた我々は、そんな慣れぬ光景からか、幾度もなく隠れた段差に引っ掛かっては、身体を雪の中に埋めないよう体勢を保たなければならなかった。
「こんなに、降ったのね」
一歩踏み出す毎に鈍い音を立てながらそんな事を呟く彼女は、今心ここにあらずといった感じである。反対に僕はといえば、こんな朝方、誰の足跡もない広大な雪化粧をこの足で荒らして良いものかと、ささいな悩みに苛まれていた。

「久しぶりじゃない?私と会うの」

「三ヶ月ぶりくらいかな」

「秋には長野の合宿。最近は、芝居のレッスン場に通ってるの」

「女将さんには、まだ言ってないんだろうね。大学はどうしてるの?」

平城宮跡と朱雀門の中央を分かつようにして、近鉄奈良線の赤い車両が、頻繁に行き来する。この一面の雪景色において、変化を与えてくれるのは、その車両が走る姿、線路を滑る低い音のみで、それらが去ってしまった後は、耐え難い耳鳴りの中をただ二人で進むしかなかった。

「カナに言われたの。そんな馬鹿な事は止した方が良い。先々の事を考えた方が良いって」

「......」

「ねぇ、私達って、将来の為に生きてるの? 今を犠牲にして、おばさんになった自分の為に色々と考えないといけないの?」

「なんか、年金みたいな話だな」

「家が貧乏だから、国公立に入った。目標が出来て、自分の貯金を崩して、スクールに通う。でも結局、夢を見上げる事は咎められるんじゃない。おかしいと思わない?」

「皆、君の事が心配なんだよ」

電車の騒々しい走行音。彼女は、すぐにでも開きたい口を、必死に我慢して閉ざしていた。

「失敗したらどうしようって?」

「多分ね」

「......正直に言うとね、周りが言う事も分かるのよ。馬鹿にしてるんじゃないって事くらい。だからこそ、あなたが羨ましいの。自由に進みたい道に行ける、あなたが」

「いや、僕だって色々あるよ。自由にならない事、未だ知らない事が色々と」

「ふうん、例えば?」

「経験不足なんだ。どう言えば君を楽に出来るか、どうしたら励みになるかも分からない。でもさ......」

「でも?」

「僕ら、ただ呼吸する為に生きている訳では、ないよな」

これは自らに語り掛けた言葉である。決して僕から彼女に向けた返答ではなかった。相変わらずの逃げ腰な思考に嫌気がさして、広場の端まで歩こうとするも、そこで突如として背中に受けた衝撃。見ずとも、それが雪玉だという事が分かった。ゆっくり振り返った先には無邪気に笑う彼女の姿。
「探そうよ。私たちが何で生きているのか」
次の雪玉が小柄な手から放られた時、その一瞬で彼女が見せた明るい表情、身体の回転、体勢を崩して宙に浮かんだ小さな身体。僕の顔目がけて飛んでくる雪玉は着弾までの合間、そんな変わらぬ日常の断片を切り取って......。

 気が付けば、こちらも負けじと雪玉を作っては彼女の方へ投げていた。二人して笑いの混じる白い息に覆われながら身体を動かせば、先程までの悩みなどは、冬の曇り空へ消えていく。
「私、やっぱりあなたの事......」
僕が次の雪玉を投げようと振りかぶった際、彼女がそんな事を言うもんだから、今度はこちらが尻もちをついてしまった。慎重に寄って来る彼女の頬は、寒い空気の中で激しく紅潮しており、その赤らめた表情を凝視する僕の両目に、またもや柔らかい雪の衝撃を受け取った。
––嫌いよ。
でも、彼女は確かに笑っていた。

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