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さらば、名も無き群青たち(1)

「ほら、ここからなら誰にも邪魔されず、空を見上げる事が出来るの」
そう言って、いつものように無邪気な笑みを浮かべた君の姿は、初夏の雲一つない青々とした空、そんな中にあってもグラデーションを忘れぬ、この空気に散った様々な色の前で、今なお薄れる事なき幻想として記憶されている。


 十年前、奈良盆地に留まる熱された空気に、いいかげん嫌気が差してきた頃。貧乏暇なし、という言葉とは無縁の大学生であった僕であっても、近所の蕎麦屋で出前のバイトをしたり、先輩より紹介された意義の分からない仕事––奈良公園前にて、過ぎ去るカップルの数を記録するというもの––を、片手間とはいえど、真剣にこなしていた。週に一度、二度しか姿を見せぬ僕に対して「もっと仕事振ろうか?」だの「金は大丈夫?」という心配と嫌味、そのどちらとも取れる言葉を投げかけては、こちらの明瞭としない返事に少しばかりの苛立ちを見せる人がいた。
 別段、ブランド品を身に着けている訳でもなかった僕の事だから、恐らくその苛立ちというモノは、あくまで呑気に構えていたその余裕の表情により生み出されたのだと思う。舐めている、気取っている、勿論そんな感情を持ってはいなかった。しかし、世の風潮を知っておきながら、月にたった数万円を自らで稼ぐ事で自己満足していた僕の思考は、誰にどう取られても文句は言えないのだろう。


「結局は、顔と金なんやなぁ」

講義の合間、その日はそれしか発さなかった哀れ斉藤君の情けない顔を見ると、おのずとまた違う女に手を出しては玉砕する、そんな予感を受け取るに容易い。
「顔と、金と、性格じゃないの?」
そう答えた僕の言葉は、地熱の揺らめきと共に空へ消えて行った。何を言っても聞く耳持たない彼の心情は、地下深くへと掘り進んで行くらしかった。
 八月は毎週合コンがあるのだ。出来た彼女と海へ行くのだ。そう豪語していた正面の男は、顔もその成りも、決して悪いという訳ではないはずなのだが、言葉の節々に現れる軽率な雰囲気がすぐに身を乗り出すらしい。特に女性相手ではそれが顕著であった。

「まぁ......次に活かすわ。それよりもお前、たまにはサークルに顔出せよ」

「皆で酒飲むだけのサークル?」

「仕方ないやろ。そういうサークルやから」

「アウトドアサークルっていう名前なのに」


「家を出て、居酒屋に行く。どう見ても、立派なアウトドアやんか」

少しばかり女の子に気に入られるには、最低限の知能が不可欠である。午後の講義の内容よりも為になった、一つの教訓である。
 

 大和西大寺の駅から群をなして出て来る、半袖のサラリーマンや騒々しい高校生に混じって、慎重に階段を降りる彼女の姿が見えた。バイト先である蕎麦屋の一人娘。素朴な名前を持っていて、年齢が同じである、大阪の大学に通っているという以外、僕が知る所はなかった。
下宿先が、平城宮跡の南にある僕に対し、近鉄奈良より徒歩五分という恵まれた実家を持つ彼女ではあるが、この蒸し暑い空気の中を歩くだけの為にわざわざ離れた駅で降りては、バスで通り過ぎる僕の姿を見つけて、笑顔で軽く手を振るその仕草。独特な雰囲気をまとっていた。
「実家がお金持ちって、羨ましいな」
以前、涼しい顔で配達を終えた僕を見て、彼女はそう言った事がある。

「嫌味を言われるだけだよ」

「でも、私みたいに電車代を浮かして小遣いにしたり、友達からの誘いを断ったりってないんでしょう? 財布の中を確認して、溜息をついたり......」

「まぁ、ないかもしれないね」

「清々しいくらいね。そんなんだから、羨ましいとも思えないの。なんか当たり前の事なのかなぁ、みたいな感じで」

「一つ言っておくけど、僕が金持ちという事ではないから。あくまで、親が多少金を持っているというだけで」


「ふうん。もっと開き直ったら良いのに。金なんて腐るほどあるんだ。困る事なんてないんだってぐらい。だから私は、あなたのこと......」


店にかかってきた電話のベルによって、彼女は声を止めた。突然の音にビクッと身体を震わせて、厨房の方を哀しげな表情で見つめていた。
––嫌いよ。
誰ともなく呟いた言葉が、ふいに僕の耳をついた。或いは幻聴だったのかもしれない。この人生において、ここまでハッキリと嫌悪感を出された事はあっただろうか。そして、それまでと変わらず、バスの窓を通して手を振る彼女の姿は、酷く歪な形をしているように思えるのだ。


 盆休み、岡山へ帰省しようとしていた僕の服の袖を、斉藤君は掴んで離さなかった。そんな必死の形相に、若干引き気味だったこちらの思惑など知った事かと、彼はバイクに跨ったままあれこれと筋を並べていた。
「今夜だけで良いから、合コン参加してくれ。男が足りへんねん。誰でもええから連れていかな、女に袋叩きにあうのは目に見えてる」
果たしてこの世界に『誰でもよい』という誘いを受けて、気分良く承諾する人間はいるのか。

「他の奴を捕まえろよ。もう新幹線の切符も買ってしまったんだ」

「今日はな......特別なんだ。飲みサーで知り合った女が、可愛い娘を連れて来てくれるねん。金はさ、全部俺が持つから、お願い!」

何気なしについた溜息は、肯定の意味を孕んで彼まで届いたようである。斉藤君は、ヘルメットの汗をタオルで拭くと、安堵の表情で颯爽と走り去ってしまった。
 あの男の悪い癖、すぐ自分に都合の良い解釈をする。では良い癖とは何か。例え金に困ってなかったとしても、奢られると嬉しいという、誰しもがそんな当たり前の感情を持っていると認識しているところである。そしてそれは、紛れもなく正しい認識であった。


 奈良公園にて、短い毛を揃えて昼寝をする鹿たち。僕のようなさして立派でもない人間にも礼儀正しくお辞儀をするという点において、彼等が持つ公平性は常に保たれていた。また、だれかれ構わず突進したり、服の端に噛み付いたりする点においても、その公平性は清く不変的なものであると、主張していた。
 夕立が引いた盆の日、斉藤君と近鉄奈良前にて待ち合わせをしていた僕は、浮足立っていた訳ではないのだが、ついつい早めに支度を済ませて、ついつい早めのバスに乗ってしまった。濡れた岩にもたれかかっていると、身体を冷ましたいのだろうか、小柄な鹿が一匹こちらに寄って来て、ズボンや靴の匂いを嗅いでいた。真夏の夕刻、その湿気の中で身体を動かすのも面倒であったし、鹿せんべいがない事を悟れば、すぐにでも立ち去るだろうという考えで目を瞑れど、下半身をまさぐられる感覚は離れようとしなかった。
「もしかして、怖いの?」
背後から聴こえた声に目をひらけば、腕を組み立つ彼女の姿が。

「もしかして、鹿が怖いの?」

「いや、そのうち離れるかと思ってさ」


「へぇ......」


口元に浮かべた笑みは、明らかに嘲笑のそれだった。それでいて彼女は、僕の言葉を別に疑ってはいなかった。食えない女。太腿をほぐす様に、手でマッサージをしながら、彼女はその笑みを絶やさずにいた。

「今日はバイトなかったでしょう?こんな所で何してるのよ」

「友達と約束があってね。大事な用件なんだ」


「友達って、その鹿の事?」

「......顔は、似てるかもね」


「ふうん、どんな用なの?」

「先々の事とかね。まぁ色々あるんだ」

色々ね
、と繰り返し呟く僕の方を見て、彼女の瞳は笑ってはいなかった。そんな表情のせいで何故が本当の事を言うのがはばかられたのだ。
しかし、合コンの事を素直に言ってしまえば良かったと後悔したのは、彼女との談笑が終わり待ち合わせた斉藤君と共に、指定の店に入った時だった。
見慣れた青いジーンズに、使い古されたランニングシューズ。鎖骨の汗を拭くハンカチは、こちらに不敵な笑いを浮かべていた。
「初めまして。エミって呼んで下さい」
先程の笑顔とは少し異なる表情で、彼女がそう笑い掛ければ、何の変哲も無い娘に見えるのだから不思議である。終始、強張った顔をしていた僕を除けば、皆は存分に飲んで会話をして、当の斉藤君にしても実に気分が良い事だったろう。そしてもう一人、終始その笑みをこちらに向け続けていた彼女の意図するものとは......。


 一次会が終わり、場の流れは二次会を望んでいるように思えた。「オイ、行けそうだな」などと、酔って顔を赤らめる斉藤君をよそに、僕は「この後、用があるから抜けるね」と二人に告げて、バス停の方へ身体を向けた。後ろめたいものがあった。どこからか責められている気分になった。でも何故か、それを正面から受け止める気には到底なれなかった。
「本当に色々あるんだね」
背中越しに聞こえた彼女の皮肉と、靴を地面に擦り付ける音。弁解の余地はない。ただ、鹿ほど暇でもないのだ。そんな言い訳を心に落として、暑苦しい人混みの中を縫うようにして歩く僕の姿は、確かに人を苛つかせる所があるのかもしれない。

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