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桜と共に散る雪を見たか

 今日、桜と共に散る雪を見たか。
 僕は見た。地面を染めるわけでなく悪意なき春雪の薄化粧。ほら、我々の視界は実に不明瞭でありながら、それでも苦し紛れに抵抗する桜の鼓動というものを、感じ取ろうとしている。数年前の、あの青年のように。

 青年には、昔から特別に想うところがあり、高校に進学するときも、大学へ入るときも、彼が見惚れた桜より離れることはなかった。彼らは幼い頃からの付き合いだったし、たとえ彼の純真たる想いが桜に、そして桜の無垢な心が彼に届いていなかったとしても、二人は互いの春を永遠に誓いあっていた。

 しかし、夏がきた。秋がきた。冬がきた。手を取り合わなければ、到底生きてはいけぬほどの辛い現実がそこにあった。彼が、彼らが悪いわけではなかった。しかし、事実として桜は次の春を迎えれないのではないかと、そう考えられていた。日に増して細くなっていく身体。幼い頃は自分より遥かに背が高かった桜の、縮みゆく哀れな姿は、彼に大きな悲しみを与えた。
 一年後、青年は二十歳になった。
 二年後、青年は社会を見据えた。
 三年後、社会は青年を受け入れようとした。
 ......桜は生きていた。生き抜いていた。いや生き抜くことを決めたのかもしれなかった。

 青年が優しく撫でると、桜は嬉しそうな表情を浮かべながら頬を桃色に染めた。気がつくといつの間にか、春だった。春が訪れていた。
「覚えてる? 昔はチビ、チビと言われていた僕だけど、いつの間にか背が伸びただろう」
 二人して笑った。サクラの花びらが一枚、風に流されて青年の頬をかすめた。次に彼は、頬に手をやり、その感触をたしかめるかのようにして、目を閉じた。──春だった。

 四年後、青年は就職した。氷河期とも言える就職難、その割に良い勤め先に恵まれた彼は、ある一言をどうしても桜に伝えられなかった。
「......東京に行くんだ。仕事なんだ。会社は、別に誰が行こうが構わないだろう。僕は、この会社でないと困るんだ」
 何度も、何度も、反芻して、繰り返し呟き、桜の華やかな笑顔を見るたびに自らの我が儘を押し付けているようなそんな弱き心をもって、青年は黙って行ってしまおうと思った。

「やっぱり、来てくれた」
 身体を起こした桜は、弱々しい声とは裏腹に不思議なほど血色のよい顔をこちらに見せて、そして柔らかく笑った。
 僕は桜に、彼女に、君に手を伸ばし、以前やってみせたように頬を優しく撫でようとした。桜は笑って、彼女の表情は少し硬くなって、君は目を潤ませながら首を横に振った。
「ダメ! ダメだよ、近づいたら──」
 こちらを遮る手を押さえて、呼吸もままならない君の頬に触れる。僕の指は、僕を心配させまいとした君の薄化粧で紅色になり、流れ落ちた水滴はまるでサクラの花びらのように、床を美しく彩っていた。

 ──雪が。窓の外には、しんしんと降る季節はずれの粉雪が、君と一緒になって散ってゆくのが見えたんだ。今と同じような哀しき雪が。


 僕は見た。地面を染めるわけでなく悪意なき春雪の薄化粧。ほら、我々の視界は実に不明瞭でありながら、それでも苦し紛れに抵抗する桜の鼓動というものを、感じ取ろうとしている。数年前の、僕のように、抵抗する君の鼓動などというものを、今でもまだ感じ取ろうとして。

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