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プール・サイド・ストーリー 1

 九月の上旬、例年であれば夏の延長戦が如く蝉の糾弾も収まることを知らず、太陽にしても残業代をせしめる強い日差しは健在のはずで、我々は夏期休暇の思い出でも語りながら、ただプールサイドのビニール椅子に寝転がってさえいれば、しきりに吐く溜息さえも様式美として昇華されるはずであった。
 
「流石に、この肌寒さでプールはないだろう」
 電話口の向こうで葛西君がそう言えば、僕等は決して美しくない溜息を吐いた。ただの深い息が空気中に排出される様子。だが、彼の判断は正しいと言わざるおえない。僕は室内であるにもかかわらず、上着の裾を何度も伸ばして、耐え難い冷気を凌ぐのに必死だったから。
 九月の夏季反省会は、それこそ我々が学生の頃から続けられていた神聖なる行事であった。夏への感謝を忘れず、また呼びもしていないのに、毎年律儀に訪れる秋に対しての静かな抵抗の表れでもあった。なお、秋がその儀式などというものを認識していたのかは定かではない。

「今年は、暖かい場所での昼食に変更しよう。プールサイド奥の談話室で、ホットスナックを
買えばいい。瓶ビールがあれば、なおいい」
 僕は言った。頭の中は既に芳ばしいポテトと溢れんばかりのビールで一杯になってしまい、彼からの返答は、まるで遠くの世界から発せられたかのように聴き取りづらく感じた。
「今年は諦めよう。蝉の鳴き声が聴こえない。プールに顔を出す気になど、到底なれないよ」
 
──十年。我々が大学の頃から継続された、下らなくも神聖な儀式は、今年で十年目を迎えようとしていた。そう簡単に放棄してしまってもよいものだろうか。僕が反論を繰り出そうと携帯を強く握ったとき、ある一つの違和感が、聴覚を支配した。
 ……確かに、静かだ。蝉の声が聴こえない。


 馴染みのプールは、山の手に位置する住宅地に隠れるようにして建っている。車が数台しか入りそうもない駐車場、敷地を囲うようにして植えられた椰子の木。そして、白を基調とした建屋は、夏を闘ってきた証か少し薄汚れた印象を受ける。入口のドアノブに掛かったプレート『OPEN  11:00 〜 17:00  夏が終える迄』を見たとき、この肌寒さがやけに憎く感じた。

「君、今日がまだ夏に思えるのか」
談話室のチェアに座っていると、管理人が汗を拭きながら僕の方へと寄ってきた。ロッカー室の清掃をしていたらしく、モップを壁に立てると、大の字になって床に寝そべってしまった。
「もう客の姿も見えませんね」
「うん、そうだ。もうじきプールも水を抜く」
「ということは、夏も終わりか……」
 
正面の窓から、プールに浮かぶ枯葉を見る。それらは、ゆらゆらと漂いながらやがて循環口に吸い込まれていくのだろう。
 「逆だね。夏が終わるから、水を抜くんだ」
 いつまでも立ち上がろうとしない管理人は、天井を眺めながらそう呟いた。
 それから僕は水が抜かれる前のプールサイドに立ち、確かに聴こえることのない蝉の声を、耳を澄ませて探していた。どこか救いを求めるような心境で、彼らが主役だった確かな夏を、この肌寒い初秋の昼下がりに探していた。

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