さらば、名も無き群青たち(4)

 空になったジョッキを、十秒以上放置させてはいけない。つまり、酒を飲み終えたのであれば即座に次を注文する。これこそ、我がアウトドアサークルにおける唯一のルールであった。どこの誰が決めた物かは分からないが、そんな下らない掟が酔っ払いたちにとっての強い後ろ盾となるのは、言うまでもない。

 普段よりあまり酒を嗜まない僕は、敢えて数センチの量を残しておく事により、彼等『冬場の騒音達』からの迫害を逃れる他なかった訳だが、解散となった際の忘れ物確認、代金計算、そして店への謝罪に至るまでの後始末をするのもまた、素直にアルコールの海に飛び込む事の出来ない我々なのだ。皆適当に脱ぎ散らかした上着やマフラー等を見て、今から憂鬱に苛まれる僕である。

 騒音の隅に隠れて、ただ無心にジョッキの中身を眺めていると、鼻の良い斉藤君は集団よりサッと抜け出して、こちらの正面に腰掛けた。

「久しぶりやんか。まさかお前とサークルで会う事になるとはな」

「一斉メッセージ入ってただろ。既読を付けてしまった後では、断り難いからさ」

「あんさ、この後の二次会バックれへんか?」

「まっすぐ家に帰るよ、僕は」

「大丈夫!大丈夫やから任しとけって」

噛み合わない会話の後、彼は再び中央の騒音に紛れてしまった。普段通りの手口、いつも通りのやり方だった。その様にして、十二月の冬の日、我々の時計の針は正確に一秒毎を刻んで、それでも互いの心は、混じる事なき雪模様。

 軽く湿った奈良公園の土や短く刈られた草。靴で弾くと、水が跳ねる音がした。雪解けの跡か、或いは小雨が降ったかのどちらかである。付近のコンビニで缶ビールを買った我々は、暗がりの中を歩きながら、照明に当てられた木々に視線を向けていた。
 身を擦る様にして寒さに抗っていた斉藤君であるが「マフラーが邪魔だ。手袋も邪魔だ」と言って、それらを剥いでしまった。酒による体温の上昇と、冷気とのせめぎ合いに巻き込まれてしまった哀れな男を前に、僕は無言だった。
「いやぁ、うるさい連中やな。相変わらず」
こちらの台詞だが、やはり僕は無言だった。

「お前さ、先の事とか考えてるん?」

「先の事?」

「就職とか......。うん、就活の事やな」

「考えてないよ。全く」

「親父さんの会社か?」

痛い所を突かれたな。正直にそう思っていた。例え自らの思考で、自らの道を行くとしても、あの言葉数の多い父の事、何かにつけて文句の連絡を寄越すに違いない。そして、そもそも目指す場所がない僕自身の思考というのが、まさに彼が突いた痛い所だった。

「それで良いなら、俺は何も言えんけどさ」

「そっちは何か考えてるの?」

「俺か?そやなァ......仕事ならなんでも良い。ただ、胸を張って生きていきたい」

「つまり?」

「まだ、なんも考えてへんって事よ」

適当に進む中で、我々は湾曲した公園内を素直に歩き過ぎたのか、結局は近鉄奈良の付近、黄金色にライトアップされた五重塔が目立つ、興福寺の足元まで来てしまっていた。夜間、考え無しの我々が眺める塔は、それでも悠然と存在を主張し、時の中を生き抜く為に立っている。
「でも、そろそろ考えなあかんのやろなぁ」
そう呟く彼も、何かを予感していたらしい。
そしてそれは、決して間違ってはいなかった。
ただ朽ちていくだけでは、人の生きる道とは呼べないのだろう。


 年末の雰囲気を微かに感じさせたと思えば、自転車を漕ぐペダルを強く踏み、なおかつ霜で滑らない様に気をつける事で頭が一杯になる。
何かの言い訳などでは、断じてない。
 秋からの三ヶ月、店長の腰痛を理由に休業していた手前、冬季の繁忙期であったとしても、バイトの僕が入るシフトは以前と同じ、週に数回で良い。確か、そう言われていたはずだ。しかし蓋を開けてみれば、変に気を使った常連客や熱い汁を啜りたい浪人など、まさしく猫の手も借りたいほどの大忙しであり、猫を飼っていない蕎麦屋は、代わりに暇な大学生を扱き使う事にしたらしい。理不尽極まりない話である。

 幸い、注文が入るのは付近の自宅やオフィスだけだった為、一人でなんとか––相当に頑張れば––なった訳で、帰る度に膨れ上がる注文表を見て、溜息をついた僕を責める者はいない。
「こんなに忙しいの、久しぶりちゃう?ねぇ、お父ちゃん」と、女将さんの上擦った声。
厨房の店長は、凍える寒さの中で額の汗を拭いていた。でも、僕だってそれは同じだ。
「あ、そうや。ちょっと頼みたい事があって」
そう言って女将さんがカウンターの手帳を開きこちらへ見せて来た。今月の二十四日、クリスマスイブの枠に、大きく書かれた文字。
『老人ホーム、クリスマスパーティ』

「毎年、大口の注文くれる所やねん。これが終わったら、その日は上がってええから。何か予定あったら、遠慮なく言ってね」

「いえ、まぁ大丈夫ですけど......」

「助かるわぁ。エミもな、多分予定ないと思うから頼んでみれば、って言ってたんよ。あんたら、連絡取り合ってんの?」

女将さんの口振りは、文句も言わせぬモノがあった。そして、勝手な事を抜かす奔放娘。
 三重への小旅行で電話を寄越して以来、彼女からの連絡は一切なかった。今となっては頻繁に出入りする蕎麦屋にも、彼女の姿は見えなかった。女将さんとの普段の会話から推測するに朝早く家を出て行っては、夜遅くに戻って来るという生活を、ここ一ヶ月ほど継続させているらしく、それが何を意味するのか、どこで何をしているか等の情報は一切不明である。


 下宿先の家具は、人より先にダメになってしまうらしい。考えれば、当たり前の事である。記憶の糸を手繰り寄せても、実家に置いてある古い棚がいきなり音を立てて崩れる、という事はなかったし、洗面台の鏡を拭いてる途中、枠から抜けてしまうという事は有り得なかった。
 恐らく、物はダメになる前にすぐ買い換えるという家訓でもあったのだろう。家の中を見渡せば傷一つ付いてないテーブル、ソファー、シンクの中の汚れすら見た事がない。従って、今寂れた下宿先にて、次々に家具が壊れてしまうというのは、家訓に反する現象なのだ。ガムテープや釘を利用して、なんとか使用出来る状態まで修繕したものの、ツギハギだらけの何とも不格好な成りになってしまった。

 窓を開けて縁に座れば、秋の夜、彼女が眺めていた平城宮跡を遠くに見る事が出来る。もっとも昼下がりの今では、朱雀門より照り返す光が無く、夏場に繁っていた草々の跡、底冷えする環境の中で散歩をする老夫婦の姿を視界に収めるにとどまる。
 彼女はこの冬、新たな年の足音が聞こえているというのに、一体どこで何をしているのか。いびつに歪んだ本棚も、ガムテープに塗れた鏡も、それについては何も教えてはくれない。


 待たずとも来た、クリスマスイブ。前日の夜からしんしんと降った雪が溶ける事は無く、奈良では珍しい積雪となってしまった。バスに乗って移動をすれば、手袋で器用に球を作り、それを投げ合う子供達の姿が。
 店に到着した頃、ちょうど女将さんは電話の最中であり、やはり例の彼女は店内の椅子に座っていなかった。上着を脱いで、店着を羽織る僕の方へ当てられたのは、どこか申し訳なさそうな女将さんの視線。

「ごめんね。今日、こんな天気でしょう?お客さんに連絡したら、無理せんで良いよって言われたんよ。それで結局......」

「今日の配達は無しですか?」

「そうなってもてん。ホンマにごめんなぁ」

この雪の中、いかにして自転車を漕げば良いのか、まさか走って配達をする訳ではあるまいなと戦々恐々の心持ちだった僕にとっては、朗報以外の何者でもなかった。
 少しの虚しさと、女将さんから手渡された稲荷寿司のパックを片手に店を出れば、通り向こうの電柱にもたれて、腕を組む女の姿が。
「ちょっと付き合ってよ」
マフラーを巻き直しながら言う彼女の表情、寒がりに赤らめた頬は、積もる雪に映えていた。

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