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さらば、名も無き群青たち(完)

   例年よりも早い梅雨明けとなったにも関わらず、土より這い出して来る蝉の幼虫は、まるでタイミングを測ったようにしてその姿を現す。
 リュックを背負ってバスに乗る僕の視界に、青々しい緑が広がる後楽園、低い石垣に乗った岡山城を認めれば、高台まで伸びるこの道がどんな未来を僕に与えてくれるのか、そんな他人に救いを求める癖というのが未だ抜け切らない初夏の日。貴重品しか入れぬリュックは、僕の肩を押さえ付けるかのごとく、重く切ない。

 数年ぶりの父との会話。記憶はさも断片的でありながら、自らの意識していた部分については、やはり明瞭な受け答えが今も蘇ってくる。

「さっきから東京にこだわっているが、お前は本社の調達部門へ配属される事が既に決まっているんだ。二、三年やれば新たなプロジェクトでも起こして、責任者にでもしてやるさ」

「東京支社への道は、有りませんか。父さん」

「......調達部の担当役員は、俺が最も信頼を寄せる男だ。さっさと大学を出て、精一杯仕事に励むんだな」

そう言ってタバコに火を付けた父の目線は、机に置いたスクリーンへと次第に戻って行った。有無を言わせぬ物言いだった。そして、孤独に苛まれる僕の心が求めるのは、やはり笑った表情を見せる彼女の姿である。


 バタバタと動き回る斉藤君の横で、カナちゃんは扇風機の風に当たりながら澄ました顔を浮かべていた。彼がテキパキと効率良く動いたと思えば、梱包した段ボールの中から化粧品の束を取り出しては首を傾げる。そんな光景を引越し業者と共に眺めていた僕は、珍しくも彼に同情の目を当てていたらしい。
「カナ、それちゃんと箱に戻してや」と言いながら、次々に荷物を纏めていく彼の身体。

「引越し当日にやる事ではないだろ」

「一回全部梱包してんやけどなァ。カナが、あれがないコレがないって言うもんやから、結局出してしまってん」

自らの彼女に聞こえぬ様、そう呟く彼の顔に苦労ジワを見つけた。愛嬌があるとは思えない。
 当初、奈良市内にて半同棲をしていた彼等だったが、閉鎖感のある盆地に見切りを付けて、また近い将来を見据えて、大阪のワンルームに移る事となった。彼は残りの大学生活、大阪から奈良への往復に一体どれだけの時間を使うのだろうか。
「まぁ、言うて乗り換えなし。一本やから」
笑う斉藤君の首筋に、冷汗が流れる。


 なんとも狭い世界の中を、僕らはぐるぐると歩き回っていたんだ。蕎麦屋からの帰り、商店街を抜けて奈良公園を歩く道すがら、かつて合コンをした店、喧しい酔っ払いが集まる小さな居酒屋、遠くに見える尖った先端は五重塔のそれであり、今鹿を前にして岩に座り込む僕は、そんな動く事なき自らの時計に溜息を吐く。
変わらぬ空気に、変わらぬ身体。もし、何か異なる点があるとすれば、それは僕の心に問いかけるしか他なかった。
しなければならない事があるのではないか?
それはまさしく、自らの心の声だった。
 
 鹿がこちらの匂いを嗅ぎにくれば、あの時と同じ様に、目を瞑って事が過ぎるのを待つ。
「もしかして、怖いの?」
そんな声が背後より聞こえてくるかもしれなかった。嘲笑ったかのような声が、耳に届くかもしれなかった。しかし、そんな期待が淡くも崩れ去ったのは、管理事務所の職員より投げかけられた言葉によるものだった。
「あの、大丈夫ですか?」
それを認めた後、僕は再び歩きだす。
目的地は、未だ決まってはいない。


「こんな時期に友達と東京旅行やって。あの娘なに考えてるんやろ」
カウンターに頬杖をつきこちらを見る女将さんの表情は、まるで「何か知ってるんやろ?」とでも言いたそうなものだった。器を洗う最中にそのような顔をされても困る。適当に頷きを入れる僕は、東京にて舞う彼女の姿を想像した。その心境は露骨に表情へ出ていたらしい。

「あんた、なんか悩みでもあるん?」

「別に大した事はないですけどね」

「あたしも若いうちはよく悩んだもんや。でもよく考えなあかんよ。歳取ると、金か子供の事でしか悩まんくなるし、面白味がないわ」

「はぁ......よく考えます」

「ウチの娘は、何を考えてるんやろなァ」

最近の口癖となりつつあるそんなボヤキは、家庭ある女性の侘しさを感じさせるものだった。バイトの最終日が迫る中、そんな何気ないやりとりが僕の心を締め付けていた。

「まぁ、あんたも生きてればなんとかなる」

「自分の子供に対しても、そう思います?」

その問いに、女性は大笑いしながら答える。
「自分の子は特別なんよ。覚えとき」


 休日の朝、布団が身体から剥がれている事に気づいた僕は、再びそれを手繰り寄せて、夢の中へ戻ろうとしていた。窓から覗く日差しが両目を刺激し、眠れぬ苦痛による嘆きが喉から発せられた時、激しい携帯の振動を感じた。

「もしもし?」

「大和西大寺駅、十時五分着」

「大和西大寺駅がなに?」

「......十時五分着」

それだけの会話を終えた後、電話は切れてしまった。時計を見れば針は九時半を指している。飛び起きた僕は急いで歯を磨き、服を着替えて家を出たのは良いものの、路駐された車の窓に映る自らの髪の毛、伸びて跳ねたそれを見て、なんとなく相手に言われそうな事を想像した。
「酷い寝癖。もしかして、まだ寝てたの?」
そんな呆れた顔をするところまで、僕の想像はしっかりと当たっていた。

「私なんて、今日六時前に起きたのよ?」

「せめてもう少し早く連絡くれれば––」

「でも寝てたんでしょ?」

返す言葉はない。キャリーバッグを引く彼女の後を歩きながら、駅前を抜けた僕は、平城宮跡の敷地内を横断するかたちで周囲の短い草むらの中に足を踏み入れていた。早朝の朱雀門は、以前と変わらず広大な広場を望んで立っており、湿気と暑さの為に狂う歩幅を、それでも極力合わせながら進んでいく。
 彼女が足を止めたのは、ちょうど広場の中央部。周囲に遮るものがない我々の距離は近く、瞳の奥まで見渡せる透き通った夏の空気。

「オーディション、落ちちゃったみたい」

「そっか。でも、諦めないんだろ」

「そうね......。今回ここに戻ったのは、母さんにきちんと説明しなければならないと思ったから。そして、あなたに聞かないといけない事があるとも思ったの」

「うん、聞くよ」

「あなたの生きる意味は、見つかった?」

その心はやはり青く濁っていながらも、彼女はこれから自らの色で染めようとする強固な意思を見せて、僕に問いかけていた。胸の奥の鼓動を感じ取っていた。これが本質なのかどうかは分からない。特に目指すべき物もない。でも、やはり僕らは、これからも先も生き続けなければならないのだ。

「まだまだ僕は未熟らしいな」

「私だって、そうよ」

「......僕、君の事が好きだ」

ふいに口をついたものではなかった。思考の中より苦心して捻り出した言葉。そして、これより生きていく中においては重要な意味を孕んだこの言葉は、一年をかけて学んだ本質だった。
 こちらを見て表情を崩さぬ彼女は、手に力を入れて何かを我慢しているように見えた。自らの持つペンキに、他の色が混らぬよう必死になって耐えていたのかもしれない。
––嫌いよ。
幾度となくそう口にした相手の返答は、それとは違うものだった。顔を赤らめ、目に涙を浮かべる正面の彼女は、今確かに独自の色彩を以て僕の口を塞いだ。
決して交わる事がない我々の色。僕の顔に付いた彼女の涙は、それをこちらに伝えるかのようにして、頬を流れていく。
「それでも私、行かなきゃ」
それこそが、彼女の生きる意味だった。


「ほら、ここからなら誰にも邪魔されず、空を見上げる事が出来るの」

そう言って、いつものように無邪気な笑みを浮かべた君の姿は、初夏の雲一つない青々とした空、そんな中にあってもグラデーションを忘れぬ、この空気に散った様々な色の前で、今なお薄れる事なき幻想として記憶されている。
 そしてあの広場にて何に遮られる事なく夢を見上げた彼女は、この物語の主役に相応しい女優の成りをして、若き輝きを放っていたのだ。



 十年が経過して、奈良の記憶など全く薄れてしまっていた頃、新規プロジェクト発足の為に岡山にある本社と東京支社を行き来していた僕は、コンビニに貼られたポスターの中で彼女の姿を見つけた。芸名としての苗字が宛てがわれていたものの、名前には『えみ』の二文字が残されていた。新興劇団のあまり目立たない演目だったが、中央にて華やかな衣装を身に纏う彼女の瞳は、僕が想いを告げた際に見たものと変わってはいなかった。

 その後、東京の社宅に一通の便りが届いた。差出人は『斉藤かな』の名で記載されており、住所は、沖縄県那覇市となっている。
 内容としては、双子の子供が喧嘩ばかりして困っているという事。旦那が禁酒を始めてから二ヶ月が経とうとしているが、稀に酒臭い時がある事。そして主演となった友人の姿を、自分の代わりに見て来て欲しいという事。
 中には、僕の妻の分と合わせて、二枚のチケットが入っていた。妻を誘うかどうか、多少悩ましい所は有るものの、僕はそのチケットを磁石で冷蔵庫に止め、会社へと出勤して行った。

そして我々は、かつての群青だった心を捨て、今や自らの色彩を携え生きている。決して交わる事のないその色は、以降に続く未来までの筋道を示して、各々の背中を強く押していた。
さらば、名も無き群青たちよ。
僕らは今、苦しくも自らの道を歩んでいる。 

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