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さらば、名も無き群青たち(3)

 まばらな人混みを縫う様にして歩けば、自分は良くも悪くも、世の流れに上手く乗っているのだという風に思う。或いは、ただ目に見える何かしらに乗せられているだけなのだろうか。
 近鉄奈良から商店街を抜け、三条通りを西に行けば、週に一度通っていた蕎麦屋がある。
駅の周辺は、奈良公園の秋めく草木や東大寺、興福寺、国立博物館への観光客がいる他、キャリーバッグを引く欧米人の団体が三条通りを更に南下すれば、荒池の畔にそびえる奈良ホテルにて、少々和に偏ったモダニズムに浸る様子が想像出来た。

 蕎麦屋のドアは閉まっており、貼り紙には『都合により、当面の間お休みします』という文字が。店内は、勿論の事ながら薄暗かった。
 裏口に回って誰かを呼び出してみるか、それともいっそ帰ってしまうか。まごついている所で、ベランダより洗濯物片手に出て来た、女将さんと目が合う僕である。

「あら、どうしたん?そんな荷物抱えて」

「見舞いに来たんです」

そう言って、抱えたフルーツの群れを女将さんに見せる。そうだ、僕はただ見舞いに来ただけなのだ。やましい事などあるものか。

「いやぁ、お父ちゃん喜ぶわ。でもな、今日あの人、商店街の会合に行かなあかんって、杖ついて出ていったんよ。あんな身体でわざわざ行くモンちゃうやろうに」

ベランダから覗き込む様にして大声を出す彼女だが、僕はその片腕から今にもすり抜けてしまいそうな、女物の下着にその目をやっていた。
絶対に落ちてくれるな。僕に触る術はないぞ。

「商店街の会合なんて偉そうな事言って、皆でただ昼間からお酒飲んでるだけやろうに。満足に動きも出来ん癖にねぇ。迎えに行かへんから這いつくばってでも一人で帰って来いって言えば、お父ちゃん涙目なってたわ」

「はぁ、そうですか......」

「エミも、今週は友達と北海道旅行やて。豪勢なことやなぁ、まったく」

「あの、裏口の隅にコレ置いときますから、店長によろしくお伝え下さい」

当初の目論見が崩れた僕は、失意の内にその場を去ろうとした。友達と北海道旅行?結構な事じゃないか。だがこれで、週末の悲劇は避けられぬ事態となってしまった訳だ。
そんな背中越しに向けた彼女の一言。
「秋の天気は変わりやすいから、気ィつけや」
振り返ると、まさしく我々の空は雲一つない晴天で、肌寒い風は火照った身体にはちょうど良いくらいであった。だから、秋の天気とやらがいかに気紛れであったとしても、僕はその心中を知る由もない。


 三重と名古屋の境に向け、うだつの上がらぬエンジンを噴かしながら走る車体は、東名阪を北東へと進んで行く。高速に入るまでは例え形式上だとはいえ、僕にも軽い愛想を振り撒いてくれていたカナちゃんだったが、次第に運転席にてハンドルを握る男の事など、忘れてしまったらしい。斉藤君と小声で何かを話したり、冬季の旅行の打ち合わせをしたり––運転してやってるのに、何考えてるんだか––と、まぁ各々で好き勝手にやってはいたのだが、道中のパーキングエリアに入った頃には、静かな寝息を立てて眠ってしまっていた。
「カナの奴、折角連れて来て貰ってるのに、あんな感じやからなァ」
と彼から久しく聞いていないまともな言葉が飛び出せば、僕はまた思い違いをしていたのだ。
 どうやら今回に限って言えば、斉藤青年から一方的に惚れているという訳でもないらしい。僅か一、二ヶ月の付き合いだとはいえ、カナちゃんはよほど彼に気を許している様である。

「上手くやってるみたいじゃない」

「二人の時は、こんなもんやないで......そういえばお前、エミちゃんとは連絡先交換してないんか?」

「してないよ」

「アホやなぁ。なばなの里でダブルデートでもしたらさ、絶対にイケたやろうに」

僕だって、誘おうとはしたんだぜ。
口には出さなかったが、胸の奥底でそう呟く。そして、確かに僕は彼女の連絡先を何一つ知らなかった。


 赤、青、黄色。次いで紫の光が藤の花を形作れば、その通りを抜けた先にある、紅葉の鮮やかな橙色に行き着く。光は単色同士が寄る事により、決して交わらずともその色彩を艶やかに表現する。中には、眩しくてよく分からぬモニュメントまで設置されていて、よくもまぁこれほどまでに手を込んだものだと呆れたような、感心したような面持ちで歩みを止めた僕を、側で待ってくれる二人では無かった。
 伊勢湾の中洲に位置する為か、妙に寒気がするし、早いところ全てを回って休憩所でのんびりしておこうと考えた矢先、ポケットに入れた携帯電話の振動に気が付いた。
「もしもし?」
電話口からは、何の言葉も、音さえも聞こえては来ない。周りの喧騒が、やけに耳についた。

「......私だけど、聞こえてる?電波悪いのよ」

「あぁ、聞こえてるよ」

時計台、五稜郭、小樽赤レンガ倉庫。そして、ここと同じ光を持つ夜景の幻想......。

「母さんから電話が来たの。あなたが持って来てくれたフルーツ、何を残しておけばいいか」

「何て答えたの?」

「バナナとキウイは残しといて欲しいって」

「あと残ってるの、葡萄だけだな」

「良いのよ、別に。あの人、葡萄好きだから」

彼女は、母からの電話のついでに、僕の電話番号を聞き出したようである。「あんたら、まだお互いの番号交換しとらんかったの?」という女将さんの声が脳裏に浮かんでは、斉藤君より言われた言葉とどこか被る所があった。

「今、友達と旅行中なんだろ?御礼の電話なんて今度で良いからさ、楽しみなよ」

「......そっちも今、お楽しみ中だったのかな。賑やかな声が聞こえるわよ」

「全く楽しくない。詳しく言えないけど、三重にいるんだ」

「ふうん、そっか」

奈良駅前とは比にならない程の人混みを、押しつつ、押されつつ歩く僕は、果たして世の流れに上手く乗れているのだろうか。
 様々な光の点滅を掻い潜って行く中で、彼女の声はだんだんと小さく、聞き取り難くなっているようだった。上着の裾から冷気が入る。ごった返す人波に揺られて、僕はどこに向かっているというのだ。

「実はね、北海道なんて行ってないの。今、長野の山奥で合宿中なのよ」

「長野?合宿?なんで女将さんに嘘なんて...」

揺られ揺られて辿り着いた先、それは身体こそその場に足を付けていたものの、我が心は遠くへ消え失せてしまったらしい。
––言える訳ないじゃない!
そんな彼女の怒りを孕んだ嘆きを、この耳は確かに受け取ったのだろうが、僕を前にしたその光源の嵐は、既にその身を捉えていた。無数の足たちが、その場に惹きつけられていたのだ。
 一面の銀世界。白、所々に灰色が同居する光の嵐。時計台、五稜郭、小樽の赤レンガ倉庫はそこには無い。だが、吹き付ける冷気と同調するその様は、まさに雪国で間違いなかった。
声に出しては、純白に輝く雪を汚してしまうかもしれない。誰も踏み入れる事なき空間、皆を包む眩い光源は、長野の彼女に届くはずも、ないのだ。ふと我に返れば、電話は切れていた。いや、切られていた。初期画面に戻った携帯を手にしつつも、僕は未だに口を開く術もなく、そんな雪国の幻想に浸っていた。

––言える訳ないじゃない!
確かに、その通りだった。
そして我々は、言葉なく訪れるであろう、冬に向けての準備をしなければならない。

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