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クリスタルの恋人たち

 少し冷え過ぎた店内。薄い上着を羽織る君の哀れみを孕んだ視線が、ワイングラスを通して半袖の僕まで届いた。冷房が効き過ぎている。目前の君が洒落込み過ぎている。テーブルに置かれたロウソクの火は、僕の心と共にゆらゆらと揺れ動いている。
 新たな客が入って来ては、彼らが連れて来た湿気は薄い霧となって壁伝いに上がって行く。そんな空気を掻き混ぜるファンは、乾いた音を立てずに回っていて──
思考が一回転した後、僕はやはり考える。
やや冷房が効き過ぎている......。


「2年と3ヶ月。女の子として、あなたを待ってみたの」

「うん」

「でも、いつかは卒業しないといけないのね」

「......」

 器用にグラスを持つその指、銀色に輝いたリングが僕を捉えた。小さく喉を鳴らした彼女ではあるものの、それはこちらの不甲斐ない返事のせいではなかった。
 中央のホールに置かれたグランドピアノに座る一人の男。遠目から見ても分かる、その高い鼻、無駄のない輪郭、端正な顔立ちとはまさに彼の為にあるのだろう。その綺麗な瞳が見つめるのは、今僕が手に取ったワイングラス、それとも半透明なグラスにボヤけた彼女か。

 ビル・ウィザースが歌い、グローヴァー・ワシントン・ジュニアがサックスを吹く。
『クリスタルの恋人たち』は、80年代のR&Bシーンとバブル期の象徴として、街中に深く刻まれていた。余裕ある都市の寂しき心情だ。


ボクらは愛を探す、涙を流している暇などない
この無駄に流してしまった涙が全てさ
こんな水では花など育ちはしないんだ
待っていればよいことだってあるかもしれない
でも長く待ちすぎるのはごめんだ
ボクらは先へ進まなくちゃいけない


確かにこの曲は、以前僕のものだった。
しかし今となっては、ピアノを弾きながら歌う彼が、その想いを彼女に伝える為の道具となっているらしい。時とは無情、愛とは儚きもの。

 鍵盤の旋律と、耽美な声が止まったと同時に、まばらな拍手が起こった。正面に座る女の子はゆっくりと席を立ち上がって、中央の踊り場へと歩いて行く。店内の霧を纏う彼女は、次第に僕が知るあどけなさや柔らかさを失って、代わりに女性としての知性と強さを手にした。
待ってくれ、と声を掛けても良かった。だが、そんな後ろ向きな発言に反応する者は、もはやこの世界にはいるはずもないのだ。

2年と3ヶ月。あなたを待ってみたの。
長く待ちすぎるのはごめんだ
ボクらは先へ進まなくちゃいけない

 ここは冷房が効き過ぎている。だから彼らはその身を寄せ合って先に進んでいくのだろう。たった一人となった僕は、凍え死んでしまうのかもしれない。
 目立たぬ様に会計を済ませた後、身をかがめて店内を出た。冷めた身体を暖める生温い風が僕の心を打っている。未だ季節は夏で、日が落ちた後も蝉が頻りに鳴いていた。
あぁ、お前たちの様に人目もはばからずに泣く事が出来たら、どれだけ楽な事だろうか。

今の僕は、彼女にとってのクリスタルの恋人でも、ビル・ウィザースでもない。
80年代でもなければ、バブルでもない。
安いワインと、灰色の情景が迎える大東京。

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