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僕が旅する小宇宙

 首筋から鎖骨にかけてを、一筋の汗が通る。それにより目を覚ます僕は、誰にも咎められる事のない小宇宙への切符を手にしたのである。

 普段持ち出すリュックやポーチ、ジャケットなども必要ない。ひとたび軽装に身を包めば、やがて聴こえるあのリズム。風鈴、TV、ラジオに夏風、加えて子供が走る音。廊下で陽気にステップ踏めば、汚れた靴でもなんのその。黒い革靴、嫉妬をするが、お前には少し荷が重い。特に、天気が良い日には。
 重く冷たいドアを開くと、そこに待つのは、甘美な誘惑。歩くか、走るか、電車に乗るか。今し方来たバスでも良いか。行く先見ずに飛び乗る僕は、小宇宙に放たれた小さな星屑だ。


 そうして、窓から流れる星々を見ている。
空にはひこうき雲の一閃。それを遠巻きに狙うさも柔らかそうな入道雲だが、身体の所々を僅かな灰色に染めるあたり、今日の気分はあまり良くはないらしい。まぁ、いいか。
結末が分かる旅ほど、つまらないものはないからな......。例え傘を持ち合わせない、こんな状況であったとしても、陽により火照る頭や首を、冷ましてくれると考えよう。

 街の中を彩る物たち。それは、まるで宇宙に浮かぶ輝かしい星々を連想させる。赤いポストや緑が茂る街路樹──ほら、見たまえ!
今、右に流れて行ったレンガ造りの建物を。 さながら木星、あるいは金星、夏を踏まえて見たなら火星。そんな要素の一つ一つが、夜空に浮かぶ小さき光に見えるのだ。
隣に座る君、僕の話に飽きたのならば、窓の外を眺めておくと良い。その目に映る様々な物、君にはどう感じるだろう。どんな思考を生むのだろう。旅を楽しむささいな要素、それは自らの妄想と思い込み。誰にも頼らぬ好奇心。


 坂の上に建つ喫茶店。対して珍しい物では、ないかもしれない。でも、テラスから見える海沿いの街は、どうだなかなか見事じゃないか。明石に横浜、そして鎌倉......。
恐らくあれは、名もなきただの港街だって?
なんだって君は、そんなつまらない事を言う。
波より燦然と返す光の粒、周囲より聴こえる夏虫のざわめき、点々と散らばるボードを担いだ連中を見れば、どこにだって見えるだろうに。
ハムエッグとコーヒーを注文した僕には、あれが鎌倉に見えてはいるが、ホットケーキと牛乳を頼んだ君には、また違う光景が見えるだろ?──牛乳も、ミルクセーキも似たような物だ。細かい事は良いんだよ。

 背後の山から颪が吹けば、グラスの氷が乾いた音を立てて溶ける。ゆっくり注ぐフレッシュがその白い尾を引いて、くるくると弧を描くように混ざりゆくさま。明石、横浜、鎌倉.....。あぁ、君は神戸を連想したのか。
それらを優しく混ぜてやれば、気にならなくなっただろう。我々は今、旅の幻想に浸っているところなんだ。何が起きても不思議じゃない。


 そして、はからずもこんなハプニングが起きてしまった。帰りのバスが来るまでに二時間、掠れて文字が見えないが、それくらいは待たねばならないらしい。
僕らは坂を登って行く。遠慮がちに設けられた誰ともすれ違う事なき細い歩道。時計を見る気になれないものの、陽は確かに頭の真上。君のシャツ、背中が黒に染まっているぜ。

 運良く見つけた登山道の入口にて、水遊びをする少年たちを見つけた。皆同じユニフォームを着て、どうやら野球クラブの連中らしい。
木々の向こうから聴こえる、無機質な高い声、金属バットの叫び声らしいな。
近くのベンチで感じる熱狂は、幼い頃に直に見た甲子園のそれにも勝るものだった。子供の親や兄弟たちが一斉に声を上げれば、期待に応える金属バット。氷が入ったビニールを振り回し飛んだ水滴が僕らの身体を冷ましていった。
クーラーボックスで気持ち良さそうに浸るビールやコーラ。見知らぬ人より受け取るそれは、何故こんなにも美味いのか。旅がもたらすノスタルジーも、人生という旅を歩んで来た我々、大人の特権なのだ。

 試合は五回を待たずして中断となった。激しいスコールが視界を覆い、気づけば皆でタオルを回しながら身体を拭いていた。少年たちの爽やかな汗の匂い、それをこんな臭いが汚して良いのだろうか......。背に腹は代えれぬ僕ら、旅に遠慮は禁物である。
おっちゃん、何しに来たん?
と無垢な瞳で聞かれれば、
旅行中なんだ。
そんな答えで、花開く会話。
試合は中断したものの、旅に中断は無いんだ。


 僅か数時間の旅。まさしく小旅行に相応しい充実感と、少し物足りない満足感。こんな宇宙をさまよう僕ら、全てを知るなど不可能だ。
そんな相反する想いが混じれば、帰りのバスに揺られる君はどうするのだろう。
 ふとした瞬間、君は車内のボタンを押した。何か気になる物でも見つけたらしいな。僕に構わず楽しむが良いさ。旅は道連れ、世は情け。それでも人は、好奇心に勝るものを持ち合わせてはいないのだ。一期一会の美しさもまた、旅路、そして人生を彩るアクセントとなって──

さよなら!
君の旅は、きっと素晴らしい物になるだろう。

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