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【えいごコラム(BN58)】「ど真ん中。ストレート。」①

以前のコラムで芥川龍之介の「蜘蛛の糸」の英訳をとり上げました。

その際、日本語の原文では語られているのが現在のことか過去のことか判然としないのに、英訳では過去形や過去完了によってすべて過去のこととして語られ、原文の趣を損なっていると述べました。 


「蜘蛛の糸」のような名作文学だからこういうことが起こる、というわけではありません。

日本語には、語られていることの時間的位置づけ、つまり「時制」にとらわれずにものを語ることができる特質があるのです。

以下にその例を挙げましょう。


去年のゼミに、あさのあつこの『バッテリー』の英訳にとり組んでいる学生がいました。

これは中学野球のピッチャーである原田巧(はらだ たくみ)とキャッチャーの永倉豪(ながくら ごう)を中心とする物語です。

豪の住む岡山に巧が引っ越してきたことから出会った2人は、お互いの力を試すようにキャッチボールを始めます。

そこに次のようなやりとりがあります。

・・・きっちり十球目。豪が首をかしげた。
「原田、本気で投げとるか」
「最初からそんなにとばせるかよ」
「じゃろな、このくらいの球なら、だれでも投げてるもんな」
一瞬、言葉が出てこなかった。頭の芯が熱くなる。返球されたボールを強くにぎりしめた。(p.77)

上の「頭の芯が熱くなる」には、誰の頭の芯が熱くなったのか、また、それについて「語って」いるのは誰か、ということが一切示されていません。

さらに、前後の文が過去形であるにもかかわらず、この1文だけが現在形で書かれています。 


この文を英訳するとどうなるでしょうか。ゼミの学生はこう訳しました。

Takumi felt a rush of heat in his head with Go’s words.
(巧は、豪の言葉で自分の頭の中に熱が押し寄せるのを感じた。)

まず主語として Takumi を補っています。

さらに動詞を過去形にして、それが過去に起きたことだと明示しています。

さらに “with Go’s words” と頭が熱くなった理由を付記することで、より「客観的」な叙述となっています。 


このキャッチボールの場面は次のように終わっています。

「原田、サインどおりに投げえよ」
「サイン?」
「ど真ん中、ストレート」
夕ぐれ前の春の空き地に、その声はよくひびいた。まっすぐに、いちばん速い球をと豪は要求してきた。巧は、軽く息をすいこんで、うでをふり上げた。身体ぜんぶの力をのせて球を放つ。
ど真ん中。ストレート。(p.80)

最後の「ど真ん中。ストレート。」は、カッコなどがついていないので、地の文だと考えられます。

これは、巧の投球について「語り手」が描写しているのでしょうか。

巧の「心の声」なのでしょうか。

豪のセリフへの言及なのでしょうか。

それとも豪のセリフを巧が思い返しているということなのでしょうか。

そもそも、これは「時制」的には過去になるのでしょうか、それとも現在でしょうか。 


うちの学生はここを次のように英訳しています。

He hurled a fastball right down the middle.
(彼はど真ん中にストレートを投げた。)

つまり、完全に「語り手による過去の出来事の客観的な描写」に書きかえているわけです。

これは彼女のせいじゃありません。

英語で表現するならそうせざるを得ないのです。


「頭の芯が熱くなる」や「ど真ん中。ストレート。」が、現在形というよりも、むしろ時制を超越した叙述であることにお気づきでしょう。

主語がなく、誰の言葉なのかも、いつのことなのかも定かでないこの断片的な記述により、読者は物語を過去の出来事として読むのでなく、主人公の感じる「熱さ」や、投球への思いを「今」、「自分が」感じていることのように体験することができます。

しかもわれわれはこの記述にまったく不自然さを感じません。

このような効果を自然に実現できることは日本語の大きな魅力です。 


しかし、このような叙述は英語では本当に不可能なのでしょうか。

次回もこの話をもうちょっと続けます。

(N. Hishida)

【引用文献】

  • あさのあつこ,『バッテリー』,教育画劇,1996年.

(タイトルのBNはバックナンバーの略で、この記事は2014年10月に川村学園女子大学公式サイトに掲載された「えいごコラム」を再掲しています。)


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