生命の汚辱

私は生命の汚らしさ、醜さをも肯定する。
生命とはまるで泥のようではないか。
活性汚泥方という浄水方法をご存知だろうか?
泥とは生命の燃焼なのである。私はそう感ず。
私は幼少の砌、保育園でプールからの帰り道、校庭で転んで泥を口いっぱいに喰んだ。
とても嫌な体験だった。
強烈な体験だった。
それが私の原体験だと思う。
プールに帰り、先生にお願いして、ホースから水を口いっぱいに含ませてもらって、何回かぺっとやった。
僕は身体が弱かったが、あの体験で幾分かマシになったような、そうでもないような気がする。
泥とは腐敗か?
私は五黄土星の人だ。
五黄は腐敗の星である。
まさに私は運命を生きている。
私は腐敗を肯定する。
ほどよい加減で腐敗すれば、それは発酵ではないか?
これがまた珍味なのだ。
味噌汁なくして生命はない。
No
Miso
No
Life
「布団を整える。そうして誰も私を迎えに来なかった」
私の人生はきっとこうなるのだろう。
未来など予測していない。
行き当たりばったりの現実に生きている。
心が折れそうになる現実ばかりだ。
夢ばかり見て生きている訳にも行かないだろう。
だから現実を夢で塗りかえるのだ。
仮面ライダークウガのように。
それは僕の青春だ。
正義が真っ黒で。
悪魔が真っ白で。
結末は雪山で。
なんの特別な力も叶わなくて。
行き着いた先は、決死の殴り合いである。
相手の悪は、笑いながら殴ってきている。
闘争を愉しんでいるのだ。実に悪魔的である。
こちらのクウガは、普段は優しいから、どうにか言葉で分かり合えないか?と苦心した結果、もうどうにもならないという絶望から、泣きながら殴っている。
そんな正義があるのか?
そんなヒーローがいるのか?
そんな子供番組があるのか?
きっとマトモな大人たちは「けしからん!」と言ったことだろう。
子どもたちに与えるショーに「絶望」を混ぜてはいけないと。
しかし、クウガ世代の僕たちは、絶望と肩を並べて育ってきた。
この世界には「絶対に分かり合えない者がいる」という絶望を抱えてきた。
その絶望があまりにも大きいから、現実に転がる希望を拾い損ねた。
僕はとんでもなく捻くれた人間に育ってしまった。
ならば、この悪のアートの悪循環を、僕たちの世代で、断ち切ろうではないか。
しかし、私はクウガを否定しない。
あれは時代だったのだ。
時事だったのだ。
生命には腐敗が必要である。
しかし量を間違えてはいけない。
そのことをいま教わった。
こうして文章を綴るということは、自覚の旅でもある。
一人の詩人、一人の哲学者?の歩みである。
それはまた、過ちの軌跡でもあるのかもしれないが。
しかし、人は過ちを犯し、そして反省するものでしょう。
今の刑務所の制度は反対を向いている。
反省の機会を先送りにして、断頭台に送っている。
無期懲役など、首切りと変わらないではないか?
そこに愛はあるのか?
そこに気づきはあるのか?
そこに愛は見つけたか?
私は仮面ライダークウガが大好きだ。
CGは偽物だとすぐに分かったが、大人たちが良い夢を見させようとしている、その心意気を感じ取っていた。
子どもの感性は騙せない。
正直でいることだ。
自分だけは騙せない。
素直になることだ。
自分だけは騙せない。
僕は相当に捻くれている。
許してくれはしないか?
どうせあなたも、醜い私を捨てるのだろう。
きっと、ここまで読んでいないことだろう。
それでもいい。
私を愛せるのは、私だけだから。
最高のナルシシズムではないか。
故に、最低の人間である。
他人に自分を愛させないとは。
私はとても罪深い人間だ。
どうか許してくれはしまいか?
これは魔法の言葉ではない。
傷だらけでも、愛してくれますか?
愛を知らなくても、愛してくれますか?
私はどこにいますか?
心の世界で、私を見つけてくれることを願ってます。
どうか、あなたの世界に存在させてくれはしないか。
この咎人を。
ああ、私は罪深い。
愛だけを信じていた。
神という名の愛を。
愛こそすべてではないか?
すべては愛のグラデーション。愛の表現法の一つ。
ではないかしら?
なぜ明治口調なのだ。
私は相当に老け込んでしまった。
「おい老人よ。あまり若造を舐めるなよ」
「知らないよ。あたしゃ、しがないマッチ売りさね。マッチ要らんかね?」
「それなら、一つくれないか。君の愛で包んでおくれ」
「気持ちの悪いナンパ小僧だねえ」
「すんません」
多く語るよりも、対話で気づくこともあるかもしれない。
3,2,1…
カット。
われ、切断す。
ゆえに、作品あり。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?