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みんなの喜びのために創作しようぜ

「情と情緒についてを読んで」
「難しい」
「他人の利益になるような活動をした方がいい」
「真理の追求はタイムパフォーマンスが悪い。見返りがない」
「高収入、マイホーム、子沢山が理想。物質欲は最高じゃないか」
のような返答を受けて。


これでも大分噛み砕いたんですけどねえ。
お互いに生きてきた文脈が違うから、言葉が通じないんだな。きっと。

あと「見返り」はちゃんとありますよ。
自作自受。自らなして自ら受ける。

たとえば、
農夫は遠いところから肥やしを担いで畑へ巻きに行く。年月を経て、作物ができて、その葉っぱに朝露が濡れて弾いて、植物が生き生きとしていて嬉しそうに見えて、自分も嬉しくなって、これ以上他に何も要らないという喜びを得ることができる。
自ら作(な)して、自ら受ける。
作物の情緒に農夫の情が、感銘を受ける。

学問にも同じことが言える。
「この問題は十中八九解けないだろう。しかし一二、そうとも言い切れない。…。よし、やってやろう、という気になる。気持ちを向けるとほのぼのとしてくる。そして発見をすると嬉しくなる。嬉しいからさらに深く発見しようとする。発見には鋭い喜びを伴う。楽しいからやった。嬉しいからやった。続けられた理由はそうです」
みたいなこと、文化勲章を受けた数学者がテレビで語ってたよ。

アルキメデスだっけ?
お風呂のなかで、純金の重さの測り方を考えていて、風呂から水が溢れて、「そうか、これだ!」と風呂を出て、着るものも着ないで街中を走って「我は発見せり。Eureka(ユーレカ)!」と喜んだという話は有名だよね。
純金と偽物の金とでは質量が、分子量(原子量)が違うから、その重さの差分だけ水桶からこぼれ出る。
そういう計測法を発見した昔の偉人。

発見には喜び、つまり幸せを伴う。

自分のためにやったことが、巡り巡って他人のためになる。
法則を発見できたら喜びを伴うことを経験して体験して分かってるから、自分のために自分の人生を捧げられる。

君も理系だったっけ?
教科書に答えのない、先生の作った応用問題の方程式を解けて、解けた時にはそれが正解か不正解かなんてどうでもいいと感じる喜びの瞬間がどうしてもあるんだよな。

それで、同じく文化勲章を取ったその数学者は若い頃、自分の研究成果として発表披露した論文はその権威の先生に「これを見なさい」と渡された雑誌に、その先生の論文として同じ内容が載っていたのを見て赤面したというストーリーもある。

俺個人としては、化学の原体験がある。
Aという液体とBという液体を混ぜる。それら二つは味も違う。概念も違う。その二つを混ぜ合わせると、Xという液体ができあがる。これはまた味も概念も違う。
なにか「創造」ということの原体験が「コーヒーミルク」とか「カルピス」の調理の体験なんだよね。

ブラックコーヒーとミルクとは二つとも別の存在であり概念。味も違う。
二つを掛け合わせた「コーヒー牛乳」というものも、味が違うし、概念も違う。そして元にはもどらない。不可逆反応。

コーヒー牛乳を錬成する実験は成功に終わったけれど、親には怒られた。それがまた印象に残っている。
化学の語源は錬金術である。
アルケミー(アルケミスト) → ケミストリー

7歳頃までに「ごはんだよ」と言われても夢中になって辞められない事柄が、その人の天職らしいよ。

君なら少年サッカーのチームトレーナーとか?

岡潔を知らない人に、岡潔の語った思想を説明するのはとても難しい。
岡潔の本を読んで。そういえれば楽だけど。一冊程度読んだら満足して終えてしまう。
岡潔の晩年の思想が良いんだけど、ページ数にすると600ページくらいになるから、もはや宗教と勘違いされる。
それに、岡潔は奇人変人と言われていた。
まず普通の人は知りたがらない。

英訳できるレベルで理解するために、日本語で噛み砕いて説明しようとしたけれど、それも君からは「難しい」とのことで。

読んできた、生きてきた文脈が違う。言葉の定義も互いの性格で違うかもしれない。

まず自分が情緒というものを把握してない。芭蕉と同じレベルの俳句が詠めない。

だから俺は、岡潔は「情緒はありふれてる、どこにでも見つけることができる」としているけれど、心の内を見る目というのが育っていないから、情緒を上手く表現できない。

でもいま分かることは、百人一首でも情緒は感じられる。
百人一首を聴いてるときには大文学を感じるでしょう。ちょっと外国の文学じゃあここまで簡潔に言い切れない。表現できない。そう思う。

外国人の詩人は、詩は何行から始まりますか、と聞かれて「少なくとも1000行から」と答えたそうな。
日本の詩人は五七五。

最近はHaikuといって、英語の3行ポエムが認められてきているけど、その英語の中には大自然は広がってるのだろうか?

日本を見てみる。
「たまきはる 宇智の大野に 馬並(な)めて 朝踏ますらむ その草深野」
と言ったら、パーっと人馬一体になって駆ける姿が浮かぶ。
実に生き生きとした日本語だ。

「うちなびく 春来(きた)るらし 山の際(ま)の 遠き木末(こぬれ)の 咲き行く見れば」
と言ったら、パーっと桜が咲いている。ほのぼのとしてくる。
たった31〜32音程度の中にこんなにも自然が、人生が詰まってる。

古池やかわず飛び込む池の音。芭蕉。

藤の花かわず飛び込む池の音。山吹やかわず飛び込む池の音。芭蕉の弟子。

どちらも悪くないけれど、芭蕉の方が奥深い。

情のことを情でわかればいいんだけど。情のことを知と意でわかってる位だから、本質に辿り着いてない。

岡潔と長い付き合いになったけど、今俺は「釈迦の説法を聴いて、釈迦の心の境地にまだ達していない人」の状態にある。
だから、岡潔の思想がオススメだよとは言えるけど、5歳児にも分かるように説明してと言われると、苦労する。

情の哲学に興味を持ったのなら、岡潔の晩年の思想を取り扱ってる、岡潔思想研究会というサイトがオススメ。

「竹が竹だとわかるのは理解じゃないでしょ。趣きがわかってるんでしょ」
情緒は異国情緒という言われ方をするけれど。
日本国にも情緒があることを、フランス留学した岡潔はわかってたんだろうね。

君って日本を旅したことある?
「古都の日射しを見れば分かる」
と岡は言ってたから、奈良に旅行してみたら、日本の情緒が理解できるかもね。
京都奈良。行ってみたいね。

フランス、ハワイ、シエナ、ベネツィア。ウユニ塩湖。マチュピチュ。セドナ。
ここらへんを次点に行きたいね。

なんかYouTubeに奈良とか各地の散歩動画ないかね。

外国人に「日本てどういう国? どういう人たち?」と聞かれて「えっと、わかんない」としか言えないのは寂しい。俺がそうだもの。

合気道の植芝盛平の開祖は「言霊は世界共通」と言ってたから、きっと外国語にも、情緒を表現できる言葉はあるはず。
一番らしいのは「ノスタルジー」なんじゃないかな。いわゆる「郷愁」。ふるさとへ帰りたい欲望。

でも情緒は寂しいものだけじゃない。華やかな情緒もある。
花火とかタンポポとか。

「人の中心は情緒である。私は他人に「数学をやって何の意味があるのだ」と問われたときに「野にすみれの花が咲いていることは、すみれの花には預かり知らぬことであって、野にどのような影響があろうとなかろうと、どうでもよいことだ」と答えるようにしている」
みたいなことを随筆に書いてるね。それ「春宵十話」。

スミレは日本、梅は中国、タンポポは西欧。
というふうに喩えてたと思うよ。

自分にしか表現できないことを、できたら嬉しいよね。
その喜びを食べて、生きていけたら、最高。
作品がヒットしてお金持ちになったら、有頂天。

詩人のE.E.カミングスは「詩の一行も書けない人生だったなら、なにかを爆殺させる方法を学ぶといった、簡単なことを始めるべきだ」というふうに書いてたね。バックミンスターフラーの「コズモグラフィー」だか「クリティカルパス」だか「宇宙エコロジー」だかに翻訳されて載ってる「詩人の忠告」ってやつ。

血は絶やさない人の方が偉いのかね?

芸術家や学者に嫁ぐ人は、物好きだ。
そこにはそこなりの、幸せが咲いているんだろう。

自分の咲ける場所に行く。咲ける場所に置く。それが大事。

君の花は、現代人のテンプレートなのかもしれないね。
別にそれでいいと100%思うけどね。

俺は原始帰りして、万葉の頃の人の気持ちになりたい。
生涯で「自他対立していない句歌」がひとつでも創れたら、それでいい。
誰に伝わらなくても満足できると思う。
そうでなくちゃ、旅に出る。

何かの本の帯に書いてあったよ。
「人の悩みの9割は人間関係」
生存欲求、承認欲求、向上欲求。

宇宙はただ進化し続けていると思うな。
法華経に説かれてたかな。
そのうち人は神になり、新しい宇宙を創る。
Koji's Deep Maxの人がそんなこと言ってた。
ーーー

真訳 法華経---釈迦の「授記」によって生み出された全創造世界の秘密

ーーー
生存欲求と向上欲求は満たされてる感じはあるけど、承認欲求はまだだな。
前者二つは個人の内で完結する。けど後者は社会の人間たちが関わってくる。

承認欲求はどうしたら埋まるのか?
別に埋めなくていい。そう思うこと。
自分で認めてあげればいいんだ。
それができないのはなぜか。

「良い詩ができた。
そう思っても、次の日には否定したくなるであろう。
ならば、芭蕉たちはどうしてその世界に一生を託せたのだろうか。
まるで薄氷の上を歩くようだ。」
と評論されてる。

芸術家は無我の境地でないと成れないのかもしれない。

心頭滅却。して自我を抑止する。
則天去私。して自我を去り真我に至る。

誰かの利益のために芸術家になろうとは思わない。

細美武士は言われた。
「この音楽いいね。でも、これじゃあ売れない」
こう思ったらしい。
「いや、おかしいだろ。だって美味いメシあったら普通は売れるだろう。このメシ美味いけど売れないよな。それっておかしい世界だなって思った」

俺の作品がビジネスにならなくても構わない。
ビジネスって結局は刺激量の世界なんじゃないの?
エンタメはどんどん過激にしていかないと売れない。

いや、そんなことはないか。

ならば、何千年も前のエンタメは今でも笑えるのか?

へそ踊り。
盆踊り。
お祭り。

うん。真のエンタメは時代を超えるようだ。

売れないということは、真のエンタメではない。
真のエンタメとは何だろうか、どういうものだろうか?

万人に共通して、作品を見たときに「あ、これはいいな」と思わせるようなものだろうか。

一つあった。
マンダラ塗り絵がそれだ。
多くの人が目を留めたようだ。

俺には色彩のセンスがあるのかもな。

文芸で「これはいい」とみんなに感じてもらえるものを作るのはまだ大変だ。考えたこともなかった。
ありがとう。一つ気づきが生まれた。

小説科の先生に自分の書いた小説を添削してもらったことがある。
主人公にセクハラ発言を喰らわせた。
それは俺なりの、人生には苦味あり、の表現だったのだが、小説科の先生にはすべてカットすべきだと言われた。
それはエンタメではないからだろうな。
人を不快にさせる文章、物語は少なくともポップ、大衆エンタメではないよね。

米津玄師はファーストアルバムで、自分のやりたいことをすべて詰め込んで表現し切ったら、周りからは「なんだこのヘンテコなものは」という扱いを受けて、絶望して、しばらく引きこもり、その後、大衆にウケるポップなものを作りたいと立志して、四枚目のアルバムになるころにはピークを迎えた。そしてシングル「Lemon」が出て、爆発的に売れた。

お金のために芸術を売れ、と言ったら嫌な言い回しだな。
みんなの喜びのために芸術を創れ。そういえば、みんなわかってくれないものか?

みんなの定義にもよるけど。
バンクシーの落書きスプレーなんかは、礼賛する人と嫌悪する人とに別れそうだ。

自分の中のみんなの概念が人類になればいい。それを大我という。
真我の集合体が大我。

そういえば、バックミンスターフラーも著書で「奉仕する人の数が増えるほどに、わたしのパフォーマンスは上がった」というようなことを書いてたな。

漸くすべてが繋がってきた感じがある。
人に話すことで、まとまりを得る。
これは俺の才能だと思う。

奉仕する人の数を増やせばいい。
みんなのために文芸活動すればいいのだろう。
いまの人類に必要な文学とは、一体どんなものだろうか?

いま彷彿としたのは、This is Americaの曲だ。

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https://youtu.be/VYOjWnS4cMY

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目覚めのための文学。
とは?
何から起こす?
なにに目覚めさす?

火宅の住処だと起こす。
第二の心に目覚めさす。

今こそ、岡潔を、その思想を文学の形にプットアウトしてあげるべきだ。

ちょっとしばらく挑戦してみるわ。

長文失礼。


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