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今すぐ使える小説テクニック5

こちらは八幡謙介が2015年に発表した実用書です。

文章作法について考える

『文章作法』とは、日本語で文章を書く際の最低限のルールであり、基本だと言われています。本書を手にする方のほとんどは既にご存じでしょうが、いくつか簡単に書き出してみましょう。

改行後の一字下げ。ただし「 」では下げない。
 「 」内に句点(マル)は打たない。
 三点リーダ(…)は必ずふたつセットで使う。
 視点を統一する。

などなど。アマチュア作家でも知っていて当たり前のルールです。しかし、実はプロ作家、それも歴史に名を残す文豪たちは、よくこれらのルールを破っています。以下、出典と共にご説明します。

改行後の一字下げ

日本語の基本中の基本、小学生でも知っている文章作法です。が、谷崎潤一郎氏は、小説ではこれをしません。「細雪」、「刺青」、「痴人の愛」などでは、冒頭、改行後は全て頭から始まっています。
 例えば「刺青」の冒頭、

それはまだ人々が「愚」という尊い徳を持って居て世の中が今のように激しく軋み合わない時分であった。(「刺青」新潮文庫平成20年5月5日78刷)

このように、文頭を下げずにはじまっています。かなり違和感はありますが、同時にちょっと新鮮でもあります。
 ただし、出版社によっては一字下げを後から採用しているものもあるそうです。また、「陰影礼賛」のようなエッセイでは一字下げが採用されています。そもそも、『改行後の一字下げ』というルールは、明治期、活版印刷が普及すると共に一般化されだしたものだそうです。この「刺青」が発表された当時はこれをやる、やらないは個人の裁量に任されていたのではないかと想像します。
 もちろん、現代では一字下げを行わないことの方が異例ですが、古めかしい雰囲気を出したいときは、文体のひとつとして採用してもいいと思います。例えば、明治期の印刷物を主人公が読むシーンなどで、引用文を一字下げしないとか、明治を舞台にした小説で一字下げなしの文体を採用してみると効果があるかもしれません。

ちなみに、明治39年(1906年)に文部大臣官房圖書(図書)課が、現行教科書を修正する際に則るべき基準として発行した『句讀法案・分別書キ方案』には、〈。〉〈、〉〈・〉〈「 」〉〈『 』〉の正しい使い方が記されていますが、文頭の一字下げについては言及されていません。

カッコ内に句点を打たないことについて

一般的な文章作法では、会話文を表す「 」内に、句点(マル)は不要である、あるいはルール違反であるとされているようです。しかし、実際に「 。」を採用している作家は非常に多いです。私が知っているかぎりでも、川端康成、安部公房、芥川龍之介、田中慎弥、平野啓一郎、綿矢りさ(初期)などが、会話文の文末を「 。」で結んでいます。芥川龍之介は角川文庫版では「 」内の句点は取られていますが、昭和初期のものには「 。」が採用されています。綿矢りさは、初期の二作品のみ「 。」を採用していますが、それ以降は一切やめています。論文や新聞記事などでは「 」内に句点は不要であるという厳密なルールがあるそうですが、小説の場合は作者の裁量に委ねられていると考えるべきでしょう。ということは、「 」内に句点をつけないことが正しい作法ではない、ということです。
 この「 。」は、どちらかというと純文学作品に多いようです。ですから、純文学では「 。」にして、エンタメでは「 」としておくなど、使い分けてもいいでしょう。

「 」は一字下げない

これも一般的な文章作法とされていますが、芥川龍之介は「 」を一字下げて表記します。ただし、同じ作品でも出版社によって表記が別れます。昭和11年(1936年)発行、野田書房版「地獄変」では、

「 。」を採用。
 「 」は文頭から。(こちらで確認できます)

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1908126)

になっていますが、平成7年(1995年:16版)発行の角川文庫版では、

「 」(句点はなし)。
「 」は文頭で一字下げ。

となっています。ゲラがどうなっているのかは分かりませんが、恐らく最初は「 。」で文頭一字下げになっていたのではないかと思われます。
 また、近・現代の作家では、司馬遼太郎が「 」を一字下げて表記します。他にも翻訳文ですが、ユルスナールの「とどめの一撃」(岩崎力訳)でも文頭の「 」は一字下げで表記されています。余談ですが、「とどめの一撃」では三点リーダは【……】ではなく、【…】で表記されています。どういった理由かは分かりませんが、文庫版は1995年発行なので、いわゆる小説作法はほぼ整っているはずです。何らかの理由であえてそうしているのでしょう。訳者はフランス文学者の岩崎力氏、基本的な文章作法を知らないはずはありません。

表記の統一

同じ意味の異なる表現があったとき、表記を統一するというのも文章作法のひとつです。しかし、それをあえて揺らしている場合もあります。三島由紀夫の「鏡子の家」では、【ボクシング】、【拳闘】、【ボクサー】、【拳闘選手】という表記が入り交じって出てきます。いくつか例を挙げてみましょう。

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この小柄な、ちょこまかした、いかにも商人風な中年男は、どう見てもボクシングと縁がありそうでなかったが、この年になって前半生の腰の低さを払拭して、男性的な威厳を身に添えるため、有望な拳闘選手のパトロンたらんと決意したのだった。相撲の旦那になるには彼の資力は十分ではなかった。人にすすめられて、去年の春はじめて拳闘の試合を見、こんな若い野獣の旦那になる空想に胸をふくらませ、かたがた、相撲ほど金のかからないことに安心しながら、この世界の常套句、「いや、女に惚れるより男に惚れるほうがずっと金がかかりまさあ!」を、会う人ごとに口走るまでになった。(新潮文庫「鏡子の家」216項)

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「……そうして、ボクサーはどこから金を取るかというと、力を渇望しながら自分は卑屈な毎日を生きている哀れなお客から捲き上げた金をあらかた懐に入れた拳闘ボスから、あてがい扶持でもらうだけだし、娼婦も亦、似たようなものなんだ。拳闘選手と娼婦は、(以下略)」(新潮文庫「鏡子の家」282項)

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このように、同じ地の文でも会話文でも、同じ文中に複数の表記が登場します。もちろん、作者はあえてそうしているのでしょうが、なぜでしょうか? これは推察ですが、本書が刊行された昭和39年(1964年)頃は、まだ【拳闘】と【ボクシング】が同じ頻度で使われていたのではないかと思います。ですから、作者は恐らく作品にリアリティを付加するために、あえて両方をごっちゃに使ったのではないか、
 と。このように、まだ定着していない単語や固有名詞は、あえて表記を揺らした方がリアリティが出るということもあります。例えば、2010年頃ならまだ【スマホ】と【ケータイ】はほぼ同義語だったので、その頃を舞台とした小説を書くなら、あえてこれらを混同させてみる、など。また、同じ用語を人によって使い分けるのもありでしょう。例えば、パソコン初心者は【インストール】、熟練者は【インスコ】と表現を変えるとか。表記の統一はあくまで基本であって、絶対ではないはずです。表現上どうしても必要であれば複数の表記を使い分けてもいいはずです。

視点の統一

文章作法というより、小説作法の実践編として、『視点の統一』があります。一人称なら一人称を、三人称なら三人称を崩さず、ずっと同じ視点で書くことが小説の基本とされています。
 しかし、これも実際に小説を読んでいると、文章に定評のある作家や、文豪と言われる人ほど視点(人称)を統一していないということがわかります。私の好みで申し訳ないのですが大きく分けて、三島由紀夫型、大江健三郎型、司馬遼太郎型があります。それぞれの特徴は、

三島由紀夫型
 ・三人称の地の文から一人称に変わるとき、必ず『 』でくくる。

大江健三郎型
 ・三人称の地の文がいきなり一人称に変わる。

司馬遼太郎型
 ・三人称の地の文に作者が顔を出す。

ではそれぞれ、引用文と共に見ていきましょう。

三島由紀夫型1 三島由紀夫

一瞬老作家は、悠一の苦しみの性質がわかるような気がした。『到底俺には復讐の力さえなさそうだ。もう復讐の力もなくなったのだ』俊輔はこの眩い対峙のあとで、黙って浴室の扉を又しめた。(新潮文庫「禁色」260項)

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蝶ネクタイのレフェリイが二人を呼んだ。二人はガウンを脱ぎ、俊吉の赤いパンツと南の黒いパンツのひらひらした人絹の光沢を観衆に示した。
『さっき司会が南の名を呼び、南が四方にお辞儀をしていたとき、俺にはお客の顔が見えた。俺は冷静だ』……こんな感想は彼の頭上高く、流れ星みたいに走って去った。(新潮文庫「鏡子の家」273項)

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一読して分かる通り、三人称から、独白としての一人称【俺】に移行し、また元の三人称に戻しています。一人称に入るところを『 』でくくることにより、読者に視点が変わったことを印象付けています。

三島由紀夫型2 平野啓一郎

崇は、壁際のスタンド・ライトに照らし出された薄暗い部屋に目を遣った。(中略)『……俺は、この生に執着している。こんな芝居じみた無様な自殺のまねごとに縋りついているのも、結局は、死を恐れているからなんだ! (後略)』掻き毟るようにして頭を抱え込むと、彼は煤に覆われたコンクリートの上に涙を落とした。『……俺はただ、捏造された自殺の苦痛を、新鮮に保ち続けることでしか、生き続けることが出来ない! (後略)』崇は、こうした思いを、自嘲がもう、常のようには扱いきれなくなっていることを感じた。(新潮社「決壊」上88項)

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彼は、自分の頭が、ふらふらとあらぬ方向へと歩き出そうとするのを、慌てて引き留めた。『何考えてるんだ、俺は? そうじゃない。あいつが俺を殺したんだ! 俺があいつを殺しただなんて、……どうかしてる。』徹生はあの夜、確かに佐伯の首を絞めていた。しかし、殺そうなどという考えは、一瞬も頭を過らなかった。(講談社「空白を満たしなさい」133項)

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こちらも三島由紀夫と全く同じように、地の文の三人称から独白体の一人称を『 』でくくっています。平野氏は三島の影響を強く受けた作家ですから、似ているのもうなずけます。
 では今度は、一人称を『 』でくくらず、地の文でいきなり視点が変わる作品をご紹介しましょう。

(試し読み終了)

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