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神々の母イザナミノミコトの墓所の伝承地・比婆山で気付いた、熊野信仰・花の窟神社との繋がり

広島県北部、島根県との県境にほど近い位置にそびえる比婆山(ひばやま)。神々の母である伊邪那美命(イザナミノミコト)の墓所の伝承地とされる場所の1つだが、ここに伝わる伝承は、もうひとつの伝承地である熊野・花の窟神社の伝承そのものであることに気付く。


神話の山・比婆山と、広島県庄原市・比婆山熊野神社

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広島と島根の間に広がる山岳地帯・中国山脈の広島側に神話の山・比婆山はある。この山を越えると、そこから奥出雲が始まり島根県に入っていく。広島側には大和朝廷に繋がる神話が残り、山を越えると出雲の神話の世界に足を踏み入れることになる。中国山脈は異なる神話の中継地点のような役割をもっているのかもしれない。

僕が小さなころ、日本にもイエティ(山男/雪男)がいる! という噂があったが、その噂の大元はこの比婆山だ。当時、その存在をたびたび発見されたという比婆山の山男・通称「ヒバゴン」、僕自身は比婆山の熊野神社に参拝するようになってから思い出した単語ではあったが、ヒバゴンという響きはよく覚えていたし、今でも現地に行くとその伝説自体が地元の方々に愛されているのがわかるほど、いたるところに看板やイラストが掲げられている。

話は少しそれるが、昔からある伝説の生き物の話といえば「ツチノコ」も有名だが、比婆山のある庄原市付近の府中市上下という地域では、昭和になってから目撃情報が多数でてきた場所だ。ことから「ツチノコ捕獲作戦」に懸賞金までかけて大捜索も行っているほどだ。なにかと神話や伝説、伝承や口伝の多い土地であり、そういった民間伝承を色濃く伝えている。

一昔前まで比婆山の近くの集落の名前に「美古登村(ミコト村)」というものがあった。市町村合併の波に飲み込まれ、いまでは周辺の村と合流して西城町という地名になったが、小学校や郵便局には「美古登」の名称が使われたままでいる。

その名称の意味として「美しい古くからある山を登る、という地元の想いから」という説明を見かけるが、その根本は日本創生の神話からきているのではないかと僕は思っている。というのも、市町村合併以前に美古登村とされてきた地区は、まさに比婆山の麓であり、この比婆山こそが日本最古の歴史書と言われる古事記に記された神話を今に伝える場所として比定されている地だからだ。

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その神話の主人公は日本一有名な神様といえる天照大神や素戔嗚尊の母神様である伊邪那美命(イザナミノミコト)だ。神話によると、伊邪那美命はさまざまな神産みを行った最後に、火の神様を出産する段になり大火傷を負い、命を落とし黄泉の国へ旅立ったとされている。その伊邪那美命の御陵こそが比婆山である、というものである。

古来から比婆山には伊邪那美命伝承があった。しかしその伝承は限られた地区の限られた話だったのかもしれない。それが江戸時代になると、古事記の研究が盛んになり、国学者による翻訳書が世に出たことから、一般的に古事記の存在が知れ渡り、比婆山に伝わる伝承が古事記に記された伊邪那美命の神話そのものであるとされるようになった。やがて比婆山に鎮座する比婆大社と呼ばれた古社も、伊邪那美命を奉ずる熊野信仰と合流して、今では比婆熊野神社と呼ぶようになった。そんな想像をたくましくしていくと、麓の美古登村の原点は伊邪那美命に端を発するのではないかと思えてならない。

ちなみに、古事記同様、日本の歴史を伝える書物に日本書紀がある。似通ったようで、ところどころに古事記とは違う神話を残しているが、先に紹介した伊邪那美命の神話を日本書紀でなぞってみると、その伝承地はまさに紀伊半島の熊野となる。

今では熊野というと狭義的に和歌山県が取りだたされているが、かつては三重県の尾鷲あたりから南部全体をさしていたという。そして比婆山に残る伊邪那美命御陵伝承と同じ話を残すのが、世界遺産にも登録されている三重県の花の窟神社である。こちらは日本最古の社を謳い、まさに紀伊半島の熊野信仰の玄関口に位置している。

熊野信仰は多く磐座信仰(いわくらしんこう)を残しているが、「花の窟」の「花」は、もしかしてここから始まる磐座(磐)信仰の先端(入口)を示した「鼻(先端、さきっぽ)」から来ているんじゃないか・・・、というのは想像たくましくした僕の妄想ではある。

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※こちらの記事は、YAMAKEIonlineに掲載していただきました。

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