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神社学的☆出会い、学び、刺激を受ける夜

先日はご依頼いただいた神社学の座学を開催した。

恒例となりつつあるお仲間からのお声掛けなので、メンバーはいつもの通り。

なると、いったいどんなお話をすべきか、、、なんてことを考えながら、皆さんからの質問や疑問をお聞きしながらゆるゆるっと始まった。

天皇陛下生前御退位の話から神話の世界へ。日本最古の書物として僕も歴史の授業で習ってきた古事記。そこに記された神話の持つ意味についてディスカッションしながら、古事記がつくられた時代の背景や政治の話に想いを寄せてみる。古事記には神々の話からいきなり実在した人間の話にとってかわるストーリーが記されている。

国生み、神産みの神とされるイザナミノミコトは、様々な方法で神々を産み落としていくが、なぜ最後の火の神様だけは、人と同じように股からうんだのか?愛する妻を失ったイザナギノミコトは、隠れた(亡くなった)妻に会いに黄泉の国へ出向く。黄泉の国といえば出雲や熊野が思い浮かぶが、その黄泉の国から戻ったイザナギノミコトはなぜ、筑紫の日向の橘の・・・とあるように九州でその穢れ払いをおこなうのか?

出雲への国譲りを求めた天上世界高天原の天津神は、出雲を手中に収めた後、なぜ出雲に降臨せずに筑紫の日向におりたつのか?

その他まだまだ話し始めるときりがない。しかし、これらを含む神代の神話に歴史的事実を求めてしまうと神話のパラレルワールドに引っ張られてしまう。問題はそれらの話がどのような状況、背景のもとにクリエイティブされてきたのか。またそれらの神話が後世の我々に何を伝えようとしているのか、そんなことに思いを馳せると、僕らと同じ人として当時の人々が何を大事に考え暮らしてきたのか、ふっと心が近づいていくような気がする。

神社学は知識を共有する場なのではない。僕らの住まうこの国が脈々と繋げ創りあげてきた暮らしや文化とともにあった八百万の神様の存在を感じていこう、という魂の共鳴の時間なのだと思っている。

物事は一方面から眺めているだけでは実態をつかめないと思っている。

真実と現実の違いはそこにかかわるヒト・モノ・コトによって、無限に生まれる。神々の世界は知識をいくら重ねても、僕は意味がないと思っている。

そもそも神様の名前がある時点でそう古くない時代の人間が介在した証であるとも思う。

日本の神様は自然そのもの。その自然と寄り添って生きてきた日本人の暮らしの中に自然の摂理として生まれる現象を神と見立てた。そう考えると、神道は宗教ではなく、やはり随神道という生き方そのもの。神々のご神徳は日本人の暮らしの知恵の集積なんじゃないだろうか。

しかしこれもまた僕の考える日本人の信仰であり、他の考え方も感じ方も受け取り方も様々あることだろう。それでいい。というかそうでなきゃならない。ひとつの解釈だけが正しい、としてしまっては、八百万の神々を奉ずる随神道ではなく、一神教そのものではないだろうか。

そんな話をさせていただいていると、なんと参加者のお一人のお母様が途中から参戦。僕の倍以上の御年でありながら、やはり神々の世界への想いが大変強く、それこそ戦前、戦後の日本人の信仰の移り変わりや価値観の大変化のお話を伺うことが出来た。

そう。ぼくらのまわりの常識や当たり前の多くは、すごく近代、国の方向性、管理側の人の都合や思い込みによって勝手に決められてきた。それらの多くは、古来日本からの継承ではない。

明治維新でそれまでの価値観は大きく変えざるを得ず、天皇制を中心にした国家神道は一神教の性格を色濃く持ち、その結果戦争にむかっていく。

そして戦後、ここでもまたそれまでの価値観をガラガラポンして、180度違う生き方を余儀なくされた。たったこの150年の間に。その半分以上の時間をまさに生ききった超大先輩のお母様の話は、戦後高度成長期に生まれた小僧である僕には、目から鱗なものばかりだった。


そしてその帰り道。神社学を通して人と出会い、話を交わしそして最後には超大先輩の目から鱗なお話に出会うことが出来た。


これもまた、神様が僕らにくれた大きな大きなギフトなんだろうと

夜空にむかって頭をさげた。


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