日本の方言における最大の発明は「なんでやねん」
関東に住む僕からすると「なんでやねん」は、魔法の言葉です。表面上は攻撃しているようで、その実、相手を慈しんでいるようでもあります。関東の言葉で言えば、「なんでだよ」になるのでしょうが、その言い方だと包むこむというよりは突き放している感じがしてしまいます。
「なんでやねん」は日本の方言の中で、最大の発明と言ってもいいかもしれません。
(言い訳/塙 宣之)
お笑いコンビ・ナイツの塙さんによる著書『言い訳 関東芸人はなぜM-1で勝てないのか』を読んだ感想、第4回です。
第1回 ぼくも「強さ」を身に着けたい
第2回 「コント漫才」と「しゃべくり漫才」
第3回 「練習」は要らない
第2回のnoteにて、漫才には大きく『しゃべくり漫才』と『コント漫才』の2種類があるという話を書きました。
両者の大きな違いは、漫才中に普段のキャラそのままでやるのか、設定で作り込まれたキャラをやるかです。
そして、前者のしゃべくり漫才は普段のキャラそのままで行う漫才のことを指すのですが、塙さんはこのしゃべくり漫才のルーツは関西にあると述べています。
しゃべくり漫才のルーツは関西です。必然、漫才という演芸そのものが関西弁に都合がいいようにできています。言ってしまえば、漫才の母国語は関西弁なのです。
ここから『(しゃべくり)漫才』のルーツが関西にあることの証明としては、塙さんは『落語』を取り上げます。
結論から言うと、両者の力関係として、関西では漫才のほうが上、関東では落語のほうが上ということです。
両者の順番だったり、足元だったりにその力関係が如実に現れているのが面白い。
まずは、漫才と落語、それぞれが寄席にて披露される順番。
東京の寄席では、落語が中心で、漫才は「色物」として扱われます。トリは当然、落語です。ところが、関西ではほとんどの場合、これが逆になります。落語が「色物」となり、漫才師がトリを務める。
そして、足元。
漫才師の足元を見ると、その力関係がよくわかります。東京の寄席に出るとき、僕らは靴下で舞台に立ちます。落語家に合わせて、靴を脱いでいるのです。ところが、関西の寄席へ行くと逆になります。漫才師はみな靴を履いていて、落語家は雪駄履き。ステージ上に高座が設えてあって、落語家はそこに上がる前に雪駄を脱ぎます。
これ、言われてみるとたしかにー!って思いました。
たまに年末年始の番組などで、漫才師が靴下で舞台に出ていることがあって、そのときは『あっ、靴下だなー』くらいにしか思わなかったんですが、あれは東京の寄席を中継してたんですね。
逆に、ぼくはいま兵庫県に住んでいて基本的には漫才の力が強いお笑い番組を見ることが多いので、落語家の方は高座の上で話をしているイメージが強いです。
本のなかで、塙さんは『大阪は漫才界のブラジルだ』といった旨の表現をしていました。
それくらい、関西には日常生活のなかに『漫才』が溶け込んでいるということです。
サッカーで言えば、関西は南米、大阪はブラジルと言っていいでしょう。
ブラジルでは子どもから大人まで、路地や公園でサッカーボールを蹴って遊んでいます。同じように、大阪では老若男女関係なく、そこかしこで日常会話を楽しんでいる。それが、そのまま漫才になっているのです。
きのうのnoteは「『練習』は要らない」というタイトルでnoteを書きましたが、芸人か芸人ではないかにかかわらず、関西、特に大阪では日々の会話がそのまま『漫才』になっているのです。
だから、わざわざ意識的に漫才の『練習』をする必要がない。
そういった土壌が、M-1グランプリ過去14回のうち、実に9回が関西出身芸人が優勝しているという実績につながっているのだと思います。
ひとまず、こう言い切っていいと思います。漫才とは、上方漫才のことであり、上方漫才とは、しゃべくり漫才のことなのだと。
漫才界の勢力図は今も昔も、完全な西高東低なんです。