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「練習」は要らない

ダルビッシュ有(カブス)がこんなことを話していたことがあるんです。彼は変化球を試すとき、いきなり実戦で投げるそうです。それがいちばんいい「練習」になるのだと。それを聞いたとき、漫才と似ているなと思いました。
言い訳/塙 宣之)


お笑いコンビ・ナイツの塙さんがお笑いについて徹底的に語った本『言い訳 関東芸人はなぜM-1で勝てないのか』を読んだ感想、第3回です。

第1回 ぼくも「強さ」を身に着けたい
第2回 「コント漫才」と「しゃべくり漫才」


よく、M-1の決勝の時期が近づいてくるにつれて、お笑い好きな界隈では『今年は〇〇のコンビが仕上がってる』みたいな言い方をしますが、中川家はその表現がものすごく嫌いなんだそうです。

なぜなら、きのうのnoteで『コント漫才』と『しゃべくり漫才』の違いについて書きましたが、中川家はしゃべくり漫才の代表格です。

『しゃべくり漫才』、というか中川家の理想は『喫茶店での会話の延長』なので、いかにも練習して完成度を高めてきました!のようなニュアンスにとれる『仕上がっている』という表現を、中川家は嫌うのだそうです。

喫茶店で会話するときに、いちいち予行演習する人はいないですよね?


実際にはボケの役回りのひとが何を言うのか知っているけれども、いかにも初めて聞きましたという顔でツッコむのが、漫才です。

だから、本番では練習してきた『感』をプロならば余計に出してはいけません。

そして本中では、『実際に練習をしない』ことの意味についても、語られていました。

塙さんなりの漫才をそれほど練習しない理由が3つあるんですが、1つ目はわりと漫才特有のもので『練習すれば練習するほど、飽きてしまうから』です。

きょうここまで『いかに練習してないように見せるか』の大事さについて何回か書いてきたんですが、やっぱり、練習すればするほど、台詞が少し機械的になってきたり、相手が言い終わる前に自分の台詞を言ってしまったりすることがあります。

そうなると、漫才としてはダメです。

だから、漫才では練習しすぎないほうがいいと言われることもあるとのこと。


2つ目は『そもそも練習しないとできないような漫才は、自分たちに合っていないから』です。

1つ目とつながるんですが、それほど練習しない状態で本番で披露するためには、逆に言えば『練習していない状態でもお客さんに見せられる状態=自分たちに合った漫才』という見方もできます。

『練習しなきゃいけないどうか』を自分たちの適性のバロメーターのひとつにするのは、面白いなと思いました。

ちなみに、ここまで書いて、この話って『好きなことはどれだけやっても努力だと感じない。努力しないと行けない時点で、それは自分の本当に好きなものではない』みたいな話と、近いものがあるなと感じました。


そして最後3つ目は『練習で何回もやるよりも、本番で1回試すほうが、そのネタのポテンシャルを測れたり、一気に上達したりできる』というもの。

冒頭で引用した、ダルビッシュさんが新しい変化球をいきなり実戦で試す話ですね。

本番で実際に試してみることによって、お客さんやバッターの反応から『おっ、意外といけるな』とか『めっちゃスベったな...』とかって、一瞬で手応をつかむことができます。

それに、本番の緊張感のなかでやっていくことが、一番上達への近道です。

以前になにかの論文で読んだことがあるのですが、学生の学力が一番伸びるのは『テスト』のときなのだそうです。

テストのときが、一番集中しているし、間違えた問題についても一生懸命に復習して、今後は正解することができるから。

だからまあ、例えば強引にいまぼくがやっているライターの話に置き換えると、ライターの人に『どうやったらライターになれますか?』って聞きに行くよりも、いまはこれだけ環境が整っているのだから、まずnoteを一本書いてみたほうがいいんじゃないか?ということです。


ということで、まあ練習って基本的には大事なものだと思うんですが、例えば漫才じゃなくても、プレゼンでも、いかにも『練習してきました!』みたいなプレゼンは、やっぱり少し冷めてしまいますよね。

あと、練習することはいいんだけど、その練習を苦に感じてしまっているのなら、あんまりたくさんの練習ができない(=あんまり今後の上達が見込めない)って考え方もできます。

そして、最大の練習は本番です。

本番が相手もいてフィードバックを得られるし、一番緊張感もあるし、もう最高です。

『練習』は要らない。



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