「普通の人」がイヤで「変わった人」になりたかったけど無理だった
「人と違うことをやりたいな」と思いながら、25年間生きてきました。
学生時代はヒッチハイクしたり、海外留学したりしました。留学先は、みんなアメリカとかイギリスとかに行ってたので台湾にしました。帰国後は休学して兵庫の実家を飛び出して、単身で東京に乗り込んでインターンしてました。
就活では、同じ高校や大学の友達が大企業や公務員になるなか、50人ぐらいのベンチャーに入りました。そこを1年半ぐらいで辞めて独立しました。半年ぐらいフリーランスをやったあと、正社員が1人だった会社に入りました。
同級生とかと飲み会で集まったときに「変わったことやってるねー」と言われるのが嬉しかった。
自分って「普通の人」なのかも
僕は今、編集者として働いています。
ビジネス領域がメインなので、毎日いろんな社長さんに取材させていただいています。事業を売却して一生遊べるぐらいのお金を持っているのに、休むことなく働き続けて世の中を変えようとしている人。上場企業の社長として株主や取締役、顧客などいろんなステークホルダーからのプレッシャーを毎日受けながらも事業を前に進めている人。
みんな変わったことをやっている、変わった人たちばかりです。
そして、そんな人たちに対峙するまわりの編集者も変わった人たちばかり。感情を抑えられなくて、ムカついたら相手が社長さんだったり上司だったりしても容赦なくキレる人。ひとつのことに集中したらまわりの声が聞こえなくなって、我に返ったときはひとりぼっちになっている人。
そういった変な人たちと毎日接していると、僕って「めっちゃ普通の人だなー」って思います。
「そもそも普通ってなんやねん」という話もあるのですが、僕の感覚でいうと「いろんなバロメーターが10段階中、5ぐらい」みたいな感じ。
たぶん僕が一生遊べるぐらいのお金を手に入れたら、ひとまず2〜3週間ぐらいはめっちゃ遊ぶと思います。ずっと遊び続けるほど「遊びたい」のバロメーターが振り切れているわけではないので、たぶん途中で遊ぶのに飽きて、なんか仕事を探し始める気がします。僕が知っている社長たちは売却してお金を手に入れてから、休むことなくずっと働き続けているんです。
株主から文句を言われたら、たぶん僕けっこう落ち込むと思います。僕が知っている上場企業の社長たちは「まあ、いい時があれば悪い時もある。ここから上げていきますよ」みたいな感じでケロッとしてます。
僕だってムカつくことはありますが、基本的に人前で爆発させることはありません。取材や原稿に集中することはありますが、集中しすぎて周りから数人いなくなってるのに気づかないなんてことはありません。
ようするに、いろんなことが「ほどほど」です。
普通の人だから、「変わった人」を目指す
ある日、僕が「変わった人だなー」と思っている編集者さんと話しているときのこと。
僕が「人と違う意見だったら、嬉しくなるんですよね」と言いました。そしたら相手の編集者さんが「自分は人と同じ意見だったら嬉しい」と言ったんです。
「なんでですか?」と聞いたら「人と違う意見だった人生を過ごしてきから」と返ってきた。その人は「学校とかでも自分の言ったことがまわりに全然理解されなくて、あまり友達もできなかった」とのことでした。
それを聞いた瞬間、僕は「あ、変わった人って、普通に生きたくても生きられない人のことなんだ」と思いました。
振り返ってみると、僕は学校でも会社でも「人と意見が合わなくてつらい」という経験をしたことがほとんどありません。学校では委員長をやったり、「クラスの中心」というほど派手なキャラではなかったけど、どういうクラスでも3人ぐらいは仲のいい友達ができたりしました。会社でも割といろんな人と仲良くしていた(と勝手に思ってます)。相手がどう思ってるかはわからないけど。
基本的に「普通の人」としてどんなコミュニティでもそれなりに馴染めてしまうからこそ、人と違う「行動」や「意見」への憧れがあったのかもしれません。
後天的に「変わった人」になれる部分もある
「普通の人」が「変わった行動や意見」を意識的にすることで、後天的に「変わった人」的な思考回路を多少身につけることはできると思います。
変わった行動をすれば、変わった人がたくさんいる環境に行きやすくなるし、変わった意見を言おうとして変わった情報を仕入れているうちに、変わった見方が身についたりすることは一定あると思います。まわりから「変わった人だね」という見られ方をすることが増えると、人は無意識に「変わった人」として振る舞うようになる。
そういうフィードバックがグルグル回って「普通の人」が少しずつ「変わった人」になることができる部分はあると思います。
でもそれって「頭」で手に入れた変わった人なんですよね。
理性や計算と言い換えてもいいかもしれません。繰り返しになりますが、本当に変わった人は、なりたくてそうなっているわけではないんです。むしろ普通の人になりたいのに、自分の「本能」を抑えることができなくて、結果的にまわりから変わった人扱いをされてしまっている。
「頭」ではある程度までしか変わった人になれないのだなと、「本能」で変わった人たちと日々接するなかで気づきました。
「普通の人」はどうすればいいのか?
普通の人であるがゆえ、人と違った「行動」や「意見」に自分のアイデンティティを見出してきた人が、本物の変わった人たちに出会ったしまったらどうすればいいのか?
まずは根っこになる「普通の人」の部分を受け入れることが大切かなと思っています。
変わった人が変わった人としてしか生きることができないように、普通の人は結局は普通の人としてしか生きられないのかもなと思っています。だからまずは、そういう自分を受け入れてあげる。
最初は正直、「ちょっと悲しいな」と思ってました。「あ、俺って普通の人だったんだ」って。
でも最近は、発想を切り替えるようにしています。「普通の人であることって、めちゃくちゃチャンスなんじゃないかな?」と。
なぜなら「多くの人の心に寄り添ったコンテンツを作ることができるかもしれない」から。
当たり前ですが、世の中には「普通の人」がいちばん多い。前半に出したバロメーター的な話でいうと、「ビジョンの壮大度」でも「メンタルの強靭度」でも「集中力」でもなんのバロメーターでもいいのですが「4〜6」ぐらいに収まる人が世の中にはいちばん多いんです。
そういった人たちが考えていることや悩んでいること、気になっていることに普通の人は「本能」で寄り添うことができる。
これって実はめっちゃ大きな可能性なんじゃないかなと思いました。
「変わった人」のうち、「普通の人」への憧れみたいなものを持っている時期があった人ほど「普通の人」をめちゃくちゃ観察しているような気がします。
でもそれは、言ってしまえば「頭」でたどり着いた普通の人の気持ちです。「本能」で普通の人を生きている人のほうが、普通の人の気持ちに寄り添えることがあるのではないか。
そう考えるようになりました。
「変わった人を目指した自分」も受け入れる
普通の人である自分を受け入れたら、次は「過去の変わった人になろうとしていた自分」も受け入れてあげる。
たしかにヒッチハイクも留学もインターンも独立も、「頭」で変わった人になろうとして部分があるにはありました。いっぽうで、それらに「本能」の部分で全く興味がなかったら、そもそもそんな行動をとらなかっただろうなとも思うんです。それらにちょっとでも「本能」的に興味を持った自分がいたことは事実だし、それらを行動に移すことができた自分も事実です。
しかもそういった行動のおかげで、本当の変わった人たちに巡り合うことができた。それに僕みたいに「変わった人に憧れて変わった行動をする普通の人」って、世の中にめちゃくちゃいる気がします。その経験は、今後のコンテンツ作りにおいてどこかで役に立つかもしれません。
だから「頭で変わった人になろうとしていた過去の自分」も、全て受け入れてあげたいなと思ってます。
「本能」と「頭」の使い分け方
「普通の人である自分」と「変わった人になろうとしていた過去の自分」のどちらも受け入れたうえで、これからの自分はどうするべきか?
「自分の本能を大切にして生きる」しかないなと思っています。
やってみたいなと思った行動をするし、こういうのがいいかもなと浮かんだ意見を信じる。観てみたいかもと思ったコンテンツを素直に観てみる。
本能で浮かんだものに対して、頭で「これは変わっているかな?」と判断しない。
昨日、生まれて初めて『コナン』を映画館で観に行きました。これまでの僕は「海外の作品とか単館でやってる渋めの作品とかを観にいくほうが、変わった人っぽいよな」と思って、コナンの映画を観に行くことはありませんでした。
コナン、面白かった。特にスピッツが最高でした。
頭は「変わっているか」という判断基準に使うのではなく、「僕は本能でここに感動したのだけど、なぜ感動したのだろう?」「僕が本能で感じたこの面白さを、周りの人たちにも伝えるためにはどうすればいいのだろう?」と本能をより突き詰めるために使っていく。
そうやって多くの人に寄り添うことができる編集者になります。
それができるようになったとき、自分が「普通の人か」「変わった人か」なんてくだらない脳内議論は、自然と終わっているような気がしています。
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