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『自分自身を大切にすると同時に、自分以外も自分と同じように大切にする』ための芸術活動

人工知能やロボットがどんどん発達し、あたかも自我があるかのようなふるまいをするのを観察すると、ほとんどの人が自然に抱く疑問に

「自我が生まれたのではないか?」
「どうなったら『自我がある』と分かるのだろう?」

というものがあります。

しかしながら、自我があるかどうかは、本人(本ロボット?)にしか分かりません。

(「〜という条件を満たしたら自我があるとみなそう」という判定基準を作って共通認識とし、その基準を満たしたロボットや人口知能を「自我がある」とみなすことはできます。しかし、自我があるということをはっきりとした証拠によって確定することはできません。)

自我があるようにみえる人工知能やロボットをどれほど細かく分析しても、自我を持たない物体が複雑に反応し合っているだけで「自我がある」という証拠は得られないからです。

これは、人工知能だけでなく、自分以外の人間にも言えることです。

自分には自我があると分かりますが、自分以外の人間に自我があるかどうかを確定することは不可能です。

他者の自我は直接観察できませんので、直接観察できる身体から自我の存在を推測するしかありませんが、他者の身体をどれほど細かく分析しても、上記の人工知能と同じく、観察されるのは自我を持たない物体が複雑に反応し合っている様子だけです。

つまり私達が当たり前だと思っている「自分以外の人間にも自我がある」ということには証拠がありません。

(このように、他者は自我を持っているという証拠は得られませんので、「自我を持っていないけれども自我を持っている人間と同じ身体を持ち、自我を持っているようにふるまう存在」という想定も可能です。哲学ではこういった存在を「哲学的ゾンビ」と呼びます)

このことから、哲学の世界では「自我を持っているのは自分だけではないか」という独我論や「心(自我)と身体は別のものではないか」という心身二元論などが生まれました。

「自分にも自我なんてないんじゃないか?」と考える懐疑論者もいます。確かに自分自身をいくら調べても、例えば、精神的活動を行っていると言われている自分の脳の活動をさまざまな方法で調べても、そこで観察されるのは自我を持たない物体が複雑に相互作用している様子だけですし、自分の心の中を観察してもさまざまなイメージや言葉の形で記憶や思考、そしてそれによって引き起こされる感情が現れては消えるだけで、「自我」そのものは認識できません。

(現れては消える記憶や思考、感情達は、もしそれら全てが消えても「自我」が残りますので、それらは「自我」ではありません。例えば、何かに完全に集中し、記憶や思考、感情が消えた状態でも「自我」は残っていて、集中している対象を認識しています)。

このように、「自我」は対象として認識はできませんが、この世界を「今・ここ」で認識している「自我」があることは否定しようがないと私は思います。

つまり、「自我」とは、この自分自身の場合においても、認識の対象とすることができるものではありません。「自我」は「自我」が世界を認識する働きを自覚することによってのみ、それが存在することを知ることができるものです(この文における「世界」は、自分の内的世界における「自我」の認識の対象となるもの、例えばイメージや言葉の形で現わされる記憶や思考、感情等も含みます)。

そういった自分の自我と同じものが、たとえその証拠がないとしても自分以外の人間にもあると感じることが、自分以外の人間を自分と同じように大切にすることにつながります。よって、そう感じることはとても大切です。

こういうことを書くと、

「いや、わざわざ言われなくても、また、たとえ証拠がなくても、自分以外の人間にも自分と同じような自我があると感じるのは当たり前でしょ?」

と反論されそうですが、心理学において「他者化」と言われる現象があり、この他者化が起こると、そう感じられなくなり、人間を自我を持たない物として扱うようになってしまいます(つまりいくらでも残酷なことが出来るようになります)。

他者化は、簡単に言うと「この人、あるいは彼ら・彼女らは、私あるいは私達とは違うカテゴリーの存在だ」と思うことです。(ここからさらに、自分とは違うカテゴリーに属するとみなされた人達と、限られた資源を奪い合うなど、利害が対立すると、暴言・暴力等の残酷な行動が発生しやすくなります)。

この他者化は、条件が整えば全ての人に起こり得ます。

例えば、歴史を振り返ると戦争や災害時、あるいは差別的感情が多数派に共有されたときに、普通の一般市民がとても残酷なことをした例が沢山出てきますが、この他者化がその原因の一つです。

では、そういった他者化が起こるのをどうすれば防げるのでしょうか?

私達はだいたい4歳くらいのときに人生で初めて『他の人にも自我(あるいは、この私自身とは異なる記憶や思考、感情を持った心)がある』と理解します(心理学ではこれを「心の理論が成立した」と言います)。これは、自分以外の人と時には対立したり、ときには共感したりするという経験の中から感覚的に学ばれます。

習得中の言葉と、言葉以外の表情やしぐさをフルに使って、自分以外の人と関わり、共感してもらえる喜び、対立する悲しさ、自分以外の人の心を理解する難しさと、理解しあえたと思ったときの嬉しさを感じる…こういった経験を通して、私達は感覚的に『自分以外にも自我がある』と気付くのです。

(「自分以外にも自我があると仮定して行動すると、自分にとって利益がある行動がとりやすいということを学習する…」という説明の方がしっくりくる方もいるかもしれません。

そう捉えた場合は、上記のような他者との関わりの中で『自分以外にも自我があると仮定して行動』という習慣が自動化されて意識されなくなり、やがて『自分以外にも自我がある』と感じるようになった…ということになります。)

つまり『言葉と言葉以外のコミュニケーション手段の両方を使って、全身全霊、全力で誰かと関わること』が自分以外にも自我があると感じるためには必要なのです。

さて、大人になった私達は、楽をするために、言葉だけでコミュニケーションを取りたがるようになります(例えば、表情としぐさを使って、全身で喜びを表現するより、一言「嬉しい」という方が楽ですよね)。

そして、言葉は、世界をカテゴリーに分けて、それに、音や記号を割り当てることで成り立っています。

この言葉のカテゴリーに分ける働きによって自分達と他の人々を別のカテゴリーに分けてしまうと、他者化が起こりやすくなります。

つまり、言葉だけで世界と関わろうとすることが、他者化の原因の一つなのです。

従って、他者化を防ぐには、4歳以前の幼児のように、言葉以外のコミュニケーション手段も総動員して、全身全霊、全力で自分以外の人間と関わろうとすることが必要なのです。

(例えば、あるカテゴリーに分けられた人達に対して、実際に接したことがないときは、噂(すなわち言葉)などから判断して「あの人達は、私達とは違う、ちょっと怖い人達だ…」と感じていた人が、実際にそのカテゴリーに分けられた人と日常的に接し、様々な活動を協力して行ったりした後は「怖い人達だと思っていたけど、実際に接してみると、私達と何も違いはないということが分かった」と思ったりしますよね。)

しかしながら、これはとても大変なことですので、これを毎日本気でしようとすると、心のエネルギーがほとんどなくなってしまいます。これを「バーンアウト(燃え尽き症候群)」と言います。

バーンアウトになると、人は、自分の心を守るために、自分と関わる人を物のように扱いだします。これは心のエネルギーを使い果たさないための自衛手段として、人の気持ちを考えるというエネルギーを使うことをやめてしまった状態です。これでは他者化が起こったのと同じですね。

バーンアウトを防ぐためには、ときどき、心を完全に休ませて回復させる必要があります。

よって、他者化を防ぎつつ、バーンアウトも起こさないようにするには、

①「言葉と、大人においてはおろそかになりがちな言葉以外のコミュニケーション手段の両方を使って、全身全霊、全力で自分以外の人間と関わろうとする」

(言わずもがなですが、言葉も大事です。言葉と言葉以外の両方同じくらい大事に使って、コミュニケーションしましょう。

また、この①はとても大変なことですので、実行するのが難しいと感じる方も多いと思います。その場合は、せめて、言葉と言葉以外のコミュニケーション手段の両方を使って、「こころのふれあい」が感じられるような関わりあいを自分が出来る範囲でしましょう。)

②「心のエネルギーを使い果たす前に休養をとって心を回復させる」

の二つが重要です。

さて、言葉以外のコミュニケーション手段の代表的なものとして絵画や音楽等の芸術があります。また、芸術には心を休ませる働きを持つものもあります。

芸術活動をすると『自分自身を大切にすると同時に、自分以外も自分と同じように大切にする』という、さまざまな宗教や道徳で言われている目標が達成できるかもしれません。


追記1:このように人間の理性では直接知ることが不可能な他者の自我について考えるとき、我々は「他者の自我を直接知ることが可能な存在」すなわち「神様」の視点を想定しています。

言い換えると、自分以外の存在が、自分と同じような自我や心を持つと信じる人は、神様を信じています。

(神様は無限の存在であり、人間は有限の存在ですので、神様は人間にとって同一となり得ない絶対的な他者です。もしも、この有限な私が、無限の存在である神様の一部だとしても、無限の存在である神様の一部を限定してそれを私とみなす主体、すなわち「自我」は、やはり神様にとって絶対的な他者です。

このように神様は人間にとって絶対的他者でありながら私たちの自我の存在を直接知ることが可能な存在です。

そして、本文中に書きましたように、自我は認識の対象にはなり得ず、この世界を認識する働きを自覚することによってのみ自我の存在を知ることが出来ますので、神様はこの自我でもあるということになります。

さらに神様は、この自我以外の自我の存在を直接知ることも可能ですので、この自我以外の自我でもあるということになります。

つまり神様はこの二つの絶対的矛盾、「神様は私ではないと同時に私である」「神様は私であると同時に他の人である(そして同時に、私でもなければ他の人でもない)」を持つ存在です。

従って神様を信じるとは「人間には絶対に理解不可能な矛盾」が存在するということを信じることです。

※こういった議論では「神様」に「様」をつけないのが一般的ですが、自分と自分以外の「自我」があると感じられるものを大切にするべきなのは、それらが「神様」であるから…もちろん上記のように同時に「神様」ではないのですが…という趣旨、すなわちそれらを尊重するべきという考えを示す為に敬称の「様」をつけました。)

イエス様が「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」これが最も重要な第一の掟である。第二もこれと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい』」(マタイによる福音書22章37節-39節 新約聖書 新共同訳より引用)とおっしゃったのは、こういった理由によりこの二つが切り離せないからだと私は思います。

言葉と言葉以外のコミュニケーションを全身全霊、全力で(心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして)行うことによって、自分以外の存在が、自分と同じような自我を持つと感じるとき、私たちは神様と共にあるのかもしれません。


追記2:上記の文では「自我」と「心」を「精神的な活動やその活動を担う主体」という意味として使い、きちんと区別していませんが、私は「自我」は「認識する主体であり、認識する対象になり得ないもの、ただ認識するという働きを自覚することによってのみ、その存在を知ることが可能なもの」、「心」は「精神的な活動やその活動を行う主体であり、自我の認識の対象ともなり得るもの」と思ってます。ただ両者は密接に結びついていて、分かちがたいものであるとも思っています。




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