エベレストには登らない。

タイトルを見てピンときた人は、角幡唯介ファンだろう。ところで昨日にこの本を読み終えた。

勿論、彼の存在は承知していて、業界では物議を醸しているということもそれとなく知っていた。先日読んだトムラウシ山の大量遭難ドキュメントを読み終えて感じたのと同じく、登山の商業化については否定的なスタンスをとっている自分。読み始める前にも、なんとなくことの全容は想像していたが、見事に期待を裏切られた衝撃の内容だった。

登山という行為、山という場所は、往々にして演出の場として利用されがちだ。一歩ずつ踏みしめて、苦しみながら頂上というゴールを目指す。ときとして撤退を余儀なくされ、不屈の精神で再び挑み、ようやく栄冠をつかむ。非常にわかりやすいストーリーを仕立てることができる。

努力は必ず報われる、願えば夢は必ず叶う。その発想やプロセスはなんら問題はなく、むしろ肯定すべきだと思う。だが山は特別な場所であると認識している人々がいる以上、そこにコマーシャリズムを持ち込むとで様々な軋轢や邪推を生み出すという問題も決してなくならない。

山とは何か。ウィキペディアで調べてみると、このように書いてあった。

山(やま)とは、周囲よりも高く盛り上がった地形や場所のことをいう。地形学では丘陵や台地よりも周囲との相対的高度差(比高)や起伏が大きいものを指す。平地と比べ、傾斜した地形から成る。

乱暴にまとめてしまうと、山とはただの盛り上がった場所である。

それでも人間はその盛り上がった場所を神聖なものとして崇め、山に立入るという行為についても、非常に慎重に判断し実行していたことは言うまでもない。いつからか頂を踏むということに価値が見出され、誰よりも早く、どこよりも高い場所を目指すことが競われ始めた。

近代になり、その行為は非常にわかりやすい広告媒体として扱われることになる。登山に限らず、北極や南極やジャングルなど、いわゆる極地と呼ばれる場所や土地が、その対象となったのは言うまでもない。

話が少し逸れ始めたので当該作品に戻す。読み始める前の栗城氏に対するイメージは、やはり予想通りに覆った。いわゆるネタバレになるので具には記さないが、彼について間接的に得た情報を基に判断したり、さらには揶揄するのであれば、まずは本書を是非手にしてもらいたい。覆ると書くと表裏の関係を前提にしていると思われるが、覆ったというのはポジティヴになったということではないので、念のために申し添える。

うっすらとした既視感を抱いたのは、球団やテレヴィ局の買収で世間を騒がせた堀江氏を思い出してのことだった。彼も栗城氏も、ビジネスやエンターテイメント的要素を持ち込んだ場所が悪かった。ただ、それだけのことだったのかもしれない。上述の通りに山は、人にとっては特別な場所だ。そこに文字通り土足でズカズカと立ち入り、あまつさえ蹂躙するような行為に対し、人々は何を思うのか。

何をどう表現するかは個人の自由だが、慣習や文化には必ず惰性というものがある。その見えない力学を無視すると、途端に理解共感は得られない。冷静かつ客観的に捉えれば、山を特別なものと考える人達、そして栗城氏をはじめとするメディアの人達、いずれの主張も理解できる。

ただ、エアアルピニストとしてあえて苦言を呈するならば、栗城氏と彼を利用しようと群がった輩には諸手を上げて賛同はしかねるのが正直なところ。そもそも山には入るな、登るな、ということでは決してない。確かに、山は神聖な場所でもある、ということだ。

こちらの2冊の併読を強く推奨したい。日常生活で見たり聞いたりする感動物語を、もう一度よく観て欲しい。よく聴いて欲しい。協賛を募るということは、当然のことながら表現者の純度の低下に直結する。スポンサードとは、冒険という行為における人工甘味料だと定義したい。




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