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感情を剥き出しにして涙を流せるような人が苦手だったけど...




感情を素直に表に出せるような人が奇妙でどこか
怖いと思うことがよくある。


それは、
自分が感情を剥き出しにする事が苦手で、
それと同時にそういう人に対して、
ある種の劣等感に近いモノがあるのかもしれない。

なんで泣きたい時に顔を涙いっぱいに濡らして
人目をはばからず涙を流すことができるんだろう?
なんで怒りの感情を顔にシワを寄せて
曝け出すことができるんだろう?


そんな取るに足らないくだらない事を
延々と考えていた。
こんなくだらい事を考えている人はこの世界に
どれだけの人が一体何人いるかは想像もつかない。


例えいたとしてもここまで深く掘り下げて考える人
なんて実はいないのかもしれないし、
考えている暇さえないのかも。

ましてや文章にしている人なんか周りに見たことも
ないからこそ、僕はこういった文章という形で、
どうにかしてこの糸が複雑に絡まったような感情を
解く為にカタカタとパソコンのキーボードを必死に
叩いているんだ。

そう思い込むしかないんだ。
じゃないとこんな事をツラツラと書けるはずなんて
ありえない。

そう思う一方で、
「こんなくだらない文章を知り合いに見られたらなんて言われるんだろう?」と想像してみたけど、
この文章が例え知り合いに見られたところで僕が
書いた文章だとバレる訳が無いので、
この場所だけでは自分自身の感情に素直になって
言葉にしていきたい。





いつからだっけ?
感情を必死に隠して自分を
守るようになっていったのか。

もちろん、
小さい頃は素直に感じたままの感情を表に素直に
出せていたはず。

嬉しいことがあったら、
海に太陽の燦燦とした光が反射したような笑顔を
輝かせていたし、悲しいことがあったら目を潤ませ
蛇口からポタポタと静かに水が滴るように涙が
溢れていた。

だけど、
少しずつ年齢を重ねていくにつれて素直に
自分の感情をだんだん出せなくなっていった。

例えば、
初めて感情を剥き出しに泣いている人を見て奇妙で
恐怖を感じるようになった出来事があった。

それは、中学校の卒業式だった。
式が滞りなく終わり体育館から自分達の教室に戻り
先生の最後の言葉を聞いている時に、
教室にいるクラスの人がシクシクと泣いている 
姿を見た。

教室の狭い空間の中で悲しみが溢れている。
この異様な空間は奇妙で気持ち悪い。
ただ単純にそう感じた。

ただでさえ狭い教室で居心地はさほど良い場所では
ないなと日頃から感じていたけど、
この日はよりそう感じた。

泣いている人の姿をまじまじと見ていると
こんな思いが浮かんでもきた。
みんな俳優のように演技をしているんじゃないか?と勘違いをするほど見事に涙を潤んだ瞳から頬に着地をさせている姿はピエロのようにも思えた。 

どうせ今悲しんで寂しいから流している涙も数日も
経てば風がフッと吹くように忘れさられる。

なんなら泣いている人に対して
「どうせ会えるからそこまで泣く必要があるの?」
なんて思ったりもしていた。

これから何回も出会いと別れが
必ず訪れるというのに。

別に学校生活に不満はなかった。
それなり友達はいたし、行事もそこそこ真剣に
取り組んできたつもり。

別に一際目立つような人間でもなければ教室の隅で
1人でいるような人間ではなかった。

簡単に言ってしまえばどこにでもいるような
学生の1人だった。そう。
なんの面白みも無いようなつまらない人。

そんなつまらない人が感情を素直に表に出す事、
いやもっと言えば涙を流すことなんか
できるはずもなかった。

なんてずるい人間なんだろう。
感情を表にだして自分が傷つくのを
恐れているからこそ、
弱さの象徴であると思っていた涙を流すことは
絶対にできなかった。

それは、
自分が弱いことを周りの人に曝け出すことでもある。触れられたら一瞬で崩れる砂上の楼閣のように脆くて弱い存在。それが自分の正体だった。

それは親にも見せたことはない。
自分がどれだけ辛い事があっても弱音を
吐く事なんか一度もなかった。

たとえ何かあって心配されたとしても「大丈夫だよ」それがお決まりのセリフ。毎度毎度この言葉を上手に駆使して、煙が空中へフワフワと浮かぶようにその
言葉から逃げていた。

例えば、
習い事のサッカーもそうだった。
大事な試合に負けてほとんどのチームメイトが
悔しさのあまり雨が降りしきる青みがかったフカフカの芝生のピッチの上で涙を流してる場面があった。

試合に出ているメンバー以外も泣いている。
それにも関わらず試合に出場していた僕は一滴の涙も出ない。まずい。なんで涙が出ないんだろう?

試合に負けて悔しいはずなのに。
こんな時でさえも出てくれない。親御さんがいる
スタンドに挨拶をするときに自分だけ泣いていないのはさすがにまずいのかもしれない。

そう考えた結果、顔が見られないようにずっと下を
向いて泣いている風を装った。これしかなかった。

今考えたら僕もピエロみたいなもんだった。
演技していた。嘘をついていた。
こんな情けない自分に冷や水を掛けてやりたいぐらい最低な人間なんだと改めて感じた。

散々周りの人をピエロだの俳優だの疑っていたのに、まさか自分が同じような存在だった。
そのことに気がついた。今更だけど。


そう。僕は臆病で周りの人に弱さの象徴である涙を
見せたくないと思い過ぎて、
自分の感情に向き合おうとしない一番弱い人なんだ。

でも、その弱さを認めてしまうことは、着ている
洋服を全て脱ぎ捨て丸裸になるような
そんな感覚だった。



自分の情けなくて頼りないのない本性が周りの
人間に知れ渡る事が恥ずかしくて堪らなかった。
そう思いながらお風呂のに浸かり20分ぐらい
天井を見つめていた。


そうすれば何も考えることをしなくても良いし
忘れられると思ったからひたすら天井と
にらめっこをしていた。


無機質な白色というよりも
色褪せて黄色と白色が混ざったような天井を眺めている時間はどこか心地が良かった。

まるで自分と天井の境界線が無くなっていき、
僕と天井が一体化していくような感覚を覚えた。



たまに、目が疲れてきたと思ったら瞬きをパチパチとカメラのシャッターを切る様にし、目を休ませる。
その繰り返しを何度か行った。


そうすれば忘れられる。何も考えなくて良い。
ものすごく楽な事だった。

長い時間お風呂に浸かっていたのでのぼせそうに
なったのでお風呂から上がりパジャマに着替え
珈琲を作ってベランダで煙草を吸ってボーッと時間を過ごしていた。珈琲を一口飲んで煙草を吸う。

煙草の煙が真っ暗な夜空に向かってゆったりと流れる風にフワフワと宙に舞い上がっている。
「綺麗なもんだな」と思わず口に出していた。

明るい時間に見る煙の光景とは違って、
夜だからこそ儚く感じるモノがあったのかな?
そう思った。

その時間も今日という日が終わりそうな時間帯でも
あって明日を迎える時間でもある。
まるで出口と入り口が同じ様な感じに思えて
ちょっと笑ってしまった。

こんな風に1人の時間だったらありのままに
過ごす事ができるのに。
一生この虚無感溢れる味気の無い時間が
永遠に続けば楽なのかもしれない。

世界に自分1人だけしかいないんじゃ無いかと
錯覚するようなあの夜の時間は、
いつしか一番自分らしくいられる唯一の
貴重な時間になっていた。

特に、
社会人という世界に放り込まれてからは
その演技にも慣れている自分がいた。

入社してからまだ約2週間ぐらいしかたってないけど、常に笑顔を作って元気な新入社員として
振る舞っている。

徹底的に自分の”素”を放棄してこの世界になんとか
順応しようと、自分に与えられた”役”を必死に
演じることが必要とされていると感じた。

その場所にはあなた自身の本当はいらない。
そう言われているようにも解釈できた。

就職活動や会社の中で「個性」や「あなたらしさ」と言われるようなテイの良い言葉は、
一定の枠の中にはみ出さない程度にしか出せない。

それは、
無くても合ってもどっちでも良いような
モノで無碍に扱われる。

でも、
その個性と呼ばれるモノは確かに、
今まで自分がいる場所によって仮面を付け
替えるようにその場に適した振る舞い方を
無意識の内にその仮面を被ってきた。

例えば、
「家族といる時には子供の仮面を被る」
「学校では生徒の仮面を被る」
これは至って当たり前のことで、
どこもおかしな所はない。

人はたくさんある仮面を
被りながら生きているんだ。
会社で与えられた仮面を被って生きていくことは
免れることはできない。

だから、
与えられた役をこの世界で生きている
限りは死ぬまで演じきるしかないんだ。



本当の自分じゃないとか散々これまで口にしてきた。
じゃあ本当の自分って何なんだろう?
じゃあ嘘の自分もいるんだろうか?
でも、そんなことは全く無いんだ。

結局のところ、
どれもが本当の自分なんだ。

本当はそこまで明るくないのに頑張って笑顔を
作る自分、1人で過ごす方がラクなのに付き合いが
悪いと思われたくないがために複数人といる自分。

どれもが本当の自分でもあり自分自身を守るために
必要な仮面であることを認めてあげることこそが
僕にとっての救いの一つだったことが
やっと分かったような気がした。

今なら涙を流せそうかもしれない。
いや泣いてもいいんだ。

今まで感情を剥き出しにして涙を流せるような人が
苦手だったけど本当は羨ましかった。
それが僕の本当の気持ちだった。






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