関西学院大学准教授 貴戸理恵さんインタビュー・6


概念の研究と、手触りのある仕事との間をどう考えるか

杉本:ちょっと話がずれてしまうのですが、「北海道NPOサポートセンター」という北海道のNPOをサポートするところでNPO基金の代表をやっている方が大学で政治学を教えていた先生で、読書会というのを有志でやっているんですよ。その会は年配の人が多いんです。70代前半のいわゆる学生運動世代の人などが中心でごく少数でやっている場にお邪魔しているんですけど、この前そこに参加しているかたが話してたのは、小学校4年の時に児童憲章を読んだらしいんですね。ちょっとあらすじは忘れてしまいましたけど、児童には児童としての権利があるというような話で。

貴戸:児童福祉法の理念を受けて、まだ戦後の貧しさの残る1951年に制定されたものですね子どもの権利条約は国連の条約ですが、児童憲章は日本が独自に定めています。

杉本:それをクラスで読んで、自分の周りの子たちは貧乏な家が多かったのでものすごく感動して、学校の先生もそういう時代ですから熱を持って教えてくれたと。こんなぼくたち児童のための憲章があるんだということに驚き、それから日本国憲法を読むみたいな形になって、大学生になったら現実は違うじゃないかみたいなことに気がついて、学生運動に突っ走るみたいな話をされていました。この話を連想の中で繋げて申し訳ないのですが、*『ハマータウンの野郎ども』(ポール・ウィルス著)を翻訳された山田さんという方が亡くなられたということを山下さんのフェイスブックで見まして、おそらく同世代ではないかなと。で、僕はそのとき学校って希望や展望を与えるような場所だったんだろうなあ、と思ったんです。そのような時代の人たちにとって。つまり家とか、自分の友達とか、例えばみんな第一次産業の生活で、やはり理想とか希望とかが言葉として結実していたんだと。それを学校で知って、喜びが内側から湧いて、当時はそんなに楽しめる遊びもないだろうし、物もない時代だから、「言葉」によって展望や希望を与えられたと。だけど、大人の入り口に立った時に不条理なものが日本社会にたくさんある。そこを突破するんだということで学生運動みたいなものに走る。

 ぼくはそのような文脈の中で聴いていて「すごい話だな」と素朴に感動したんですけど、だけども今の子供たち、あるいは若者たちが政治とかに展望を持てず、場合によっては諸派系の新しく誕生したネット民ウケを狙うような政党に投票する。ぼくの狭い周辺にも見聞きするんです。ひろゆきさんとか、彼らの語る自己責任論みたいなものに潰される。あるいは逆に称賛する人たちがいて、引き寄せられる。世の中を良くしたいという展望を持てた人たちから一巡して、その一巡する過程の中で、ぼくや貴戸さんもそうかもしれないけど、学校という集団生活に合わない。なんなら、ずっと教育は親の義務だと気付かず、自分が行かなくてはならない義務なんだと思い込んできた時代を経て、先ほど言われたように、そういうことを考える時間も余裕も家庭の中にない人たちとか、あるいは逆に自分はリア充世界から落とされ、リア充を気取っている自己責任論の人たちの言葉に傷つくにせよ、称賛するにせよ、引きずられていくみたいなところに今なっているんじゃないかなと思って。改めて感慨深くそういう話を聞かせてもらったように思ったんです。児童憲章に出会った時の喜びみたいな話を聞いた時、「ああ、そうなんだなあ」と強く思ったと同時に、もうそういう言葉が通じなくなりつつあるのだろうなあとしみじみ思ったんですよね。

貴戸:時代的な手触りみたいなものがあるのだろうと思いますね。戦災孤児や浮浪児があふれ、子どもの人身売買が社会問題になっていた時代に、「児童は人として尊ばれる」「教育を受ける権利を保障される」と言われたら、それは感動的です。でも、多くの人が学校に囲い込まれて漏れ落ちを恐れている、「子どものため」と大人は言うけれどもなぜか苦しいという状況になれば、同じ言葉でも響くことは減ってしまうでしょう。苦しみの手触りが失われて、茫漠とした漏れ落ちの感覚がはびこるようになると、求められる言葉も変わってしまいますね。

 暮らしのなかに手触りが失われたということでいうと、挙げてくれた2022年に亡くなった山田潤さんを思い出します。山田さんは、『ハマータウンの野郎ども』(P.ウィリス 1977=1996)の訳者で、町工場で働いた後に定時制高校の教員になり、不登校の親の会の世話人を長くされた方でした。山田さんが大切にしておられたのはやはり「手触り」みたいなものだったと思いますね。「仕事」というと、現代の私たちはつい「正社員で安定していて、それなりに自己実現ができて、周囲から“これで一人前”と太鼓判を押してもらえるような仕事」を求めるということがあります。でも、それはある意味で働くことにまつわるリアリティが失われたところにある仕事のイメージなんですね。たとえば、「物づくり」の世界には機械と自分との間にきちんとした手触りがあって、ネジの一つを締めるのでも微妙な締め方、微妙な削り方で製品の出来が違ってくるという職人仕事がある。お給料をもらうときに振り込みではなく封筒手渡しでお金を渡されて「この手で稼いだ」という実感を得ることとか。仕事を通じて世界と向き合っていく時のナマな手触りみたいなものを重視されていた方でした。学校は、仕事の世界に向けて子どもたちを送り出すんだけれども、そういう手触りを重視せず、記号的な判別ばかりを重視する。その結果、手触りのある「現場作業」的な仕事が学校の中で価値を貶められていく。そのことへの懐疑と、同時に学校的な価値を相対化する確固とした足場のようなものが手仕事の世界にはある、ということをおっしゃっていたように思います。私にはそのような足場がなくて、どちらかといえばアイデンティティの問題に引きずられて、手触りがないまま空転していくようなところがあるので、いつも反省させられました。

杉本:そうですよね。それは私が山下さんと話した時にも山田さんの話を勝手にあげちゃったんです。自分は労働における手触りというものが本当に欠落しているので、「モノと自分の関係」ですよね。それは第二次産業高度経済成長期のどちらかというと職人的なかたが多い日本社会、工業的な製品づくりが多い日本社会の人たちで、定時制高校の生徒たちも、やんちゃだけど彼らが昼間やっている仕事の力、みたいなものに対する肯定的な考え方とか、ご自身もそういう仕事を直にされてきた経験からの強み。

 で、そこでは私もアイデンティティ重視側の人間なんですよね。例えばここで比較の形で出したらまずいんですけど、野田彩花さんのような方にやはりピンときてしまうんです、みたいな話を山下さんとしてしまいましたね。山下さんは、私も山田さんの生き様でわからない部分もたくさんあるけれども、自分とは違う文脈、そのひとが生きてきた生活の文脈というものを否定せずに、その人の文脈から考えたいと思っていますと話されていました。そうだなというふうに思ったけれど、自分の中にそれをうまく飲み込めているかどうかはわかんないんですけどね(苦笑)。ただ、働くことの世界って今後もどうなるかわからないし、ノスタルジーなのかもしれないけれど、何かモノと自分との関係で働いて、その中で生きる実感みたいなものを持つというのは、このコミュニケーション重視の時代には、逆に強みなのかもなとも思いますね。それはもしかしたらコンピューターのプログラミングの世界に生きている人なんかの強みなのかわからないけど。もちろんそれは介護の仕事などでも、積み重ねの中で得られている大きなものがあるかもしれないですね。

 私はいろいろ言ってますけど、自分の基盤が無いんですよ。「これが自分の生きる基盤だ」というものを持っていないことを実感せざるを得ないんですよね。だからもしかしたら今やっているインタビューの活動もちょっと空転しているようなところがあるかもしれないけど、やはり訊く話は一つひとつ大事なものと思っていて。もっと開かれた場所で読まれればやっている価値が十分に見えるかもしれませんが、なかなかね(笑)。長いインタビューを延々とあげても、そうそう読んではくれないのがちょっと悩みの種ではあって、話し手には申し訳ないなと思うところです。

貴戸:いえいえ。そんなことないです。
 本当に私も軸足が安定しないんですよ。ふわふわと現実から遊離しがちなところがあって人との関係性づくりとか、言葉で何かを紡ぎ出すというのは、やっぱりふわふわしがちなんですよね。関係性は相手が固定されないので、流動的でその都度の瞬時の対応でうまくいったりいかなかったりしてしまうし、言葉はどうとでも書けてしまうので。言葉はシンボルで、何かの代替品ですから、その「何か」をきちんと掴んでいればいいんですけれども、そうでない場合には、どんどん言葉だけが空転して離れていくというのはすごく起こりやすいですよね。それがいつも怖いなと思っているんです。書いていて「浮いてき始めたな」ということに気づかせてくださるのが山田さんをはじめとした上の世代の方々だったんですが、そういう方々が失われていくなかで、自分の空転に気づけなくなっていくのは怖いですね。でも、より下の世代に行くと、そういう怖さすらないと思う。軸足が浮遊しているのがデフォルトになってきている感じがあって、そうすると、周囲から肯定的なフィードバックがもらえれば、つまり承認をもらえればそれで良いのだという形になっていきやすいなと思うんですね。

杉本:いや、何かと逆説的なものの言い方をして申し訳ないんですけど(苦笑)。概念を紡ぎ出すということも、やはり自覚を忘れないきちんとした仕事であれば有用だと思います。ぼくは割と使い古された「ひきこもり」をめぐる言説とか、まあ不登校も大きな意味でひきこもり現象として考えてみると、やはりちょっと通念的な言説が多いと感じて、正直飽きはじめている面もあるわけですよ。そうするとやはり貴戸さんは大学で社会学に出会い、初めて自分の中で社会学の言葉で考える、そして自分の中の問題と、社会との関係をつなげることができると気づいたと書かれていた。ぼくはなるほどと思ったんですね。不登校界隈とか、ひきこもり界隈の中で語られる言説だけではどうも間に合わないと自分もずっと思っていたというか。確かにある種そういう通念的な言説領域に慣れている親御さんとか、当事者とかにとってみると貴戸さんの話は今まで掴み取れていなかったところに思考を広げていて「遠いな」 と感じられるかもしれませんけれども。でも、繰り返しですが、「社会性の過剰」とか、「関係性の個人化」というキーワードで掘り下げることによってぼくは気づきを得ることが多かったです。

貴戸:読んでくださってありがとうございます。まだ言葉になっていない部分もけっこうたくさんあるとわかったので、改めて整理できればと思います。

杉本:質問の要領が得なくてすごく申し訳なかったです。今日は本当にありがとうございました。


(2022年7月28日 ズームにて)


ホームページへ→

    


『ハマータウンの野郎ども』―1970年代。イギリスの中等学校を卒業し、すぐに就職する労働階級の生徒のなかで、「荒れている」「落ちこぼれ」の少年たち=『野郎ども』。彼らのいだく学校・職業観はいかなるものか?学校はどのような進路指導をしているのか?彼らの形づくる反学校の文化―自律性と創造性の点で、たてまえの文化とはっきり一線を画している独自の文化―を生活誌的な記述によって詳細にたどり、現実を鋭く見抜く洞察力をもちながらも、労働階級の文化が既存の社会体制を再生産してしまう逆説的な仕組みに光をあてる。学校教育と労働が複雑に絡み合う結び目を解きほぐす、先駆的な文化批評の試み。山田潤―翻訳。ちくま学芸文庫

山田潤- 1948年ー2022年。 元大阪府立今宮工科高等学校(定時制)教諭。
学校に行かない子と親の会・大阪」世話人会・代表。ポール•ウィルス「ハマータウンの野郎ども」を翻訳。

野田彩花- 



よろしければサポートお願いします。サポート費はクリエイターの活動費として活用させていただきます!