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関西学院大学准教授・貴戸理恵さんインタビュー ・ 新しい時代の生きづらさを訊く

今回インタビューをさせていただいた貴戸理恵さんは小学校のほとんどを不登校で過ごしたのち、大学院へ進んで研究者の道に入られたかたです。貴戸さんが小学校に通わなかった時代は、「不登校は病理である」という医学者側の見立てに反対した不登校当事者の親御さんたちや有識者などにより、学校の管理教育などを批判する運動やフリースクールが創設された黎明期でした。貴戸さんは自分の不登校経験を当事者として深く受け止め、大人たちの不登校に対する両極に立った言葉には依存せず、自分の思考の過程の中から社会学研究を通じて言葉をつむがれたかたです。今回、そのような貴戸さんに「生きづらい時代」への分析と取り組みについてお話を伺いました。

コミュニケーションにコストをかけられない時代

杉本:早速お話を伺えればと思うのですが、私、貴戸さんの著書をいろいろ読ませていただいて、いちばん最初に説得力を感じたのが岩波ブックレットの本でした。『コミュニケーション能力がないと悩む前にー生きづらさを考える』という本ですけれど、これはぼくの関心のあるところでもあって。後で時間があれば貴戸さん自身の不登校体験に基づく仕事の原体験などの部分も伺いたいですが、私はひきこもり体験者で、不登校も体験してるんですけれども、貴戸さんよりその時期はずっと早くて70年代の終わり。自分の場合は対人恐怖症だったと捉えていて、学校不適応というよりも家での兄弟関係がこじれた事情がありましたし、ちょうど思春期でもあって関係妄想的なものが拡散し、精神的にもおかしかったといって良いのが10代のひきこもり要因です。その後20代の時、大学生になって入信した新興宗教団体で幹部になってしまいまして。いまカルト宗教問題が出てますけども。私は2世ではなく、現在は世間でカルトと思われていない団体に入信したわけです。ただ学生幹部になると、やはり相当カルトチックな追い詰められ方をしてしまいました。そこを逃げ出し、逃げた罪悪感と、まだ80年代半ばだったので、宗教団体の追跡を過度に恐れてまた20代後半に外に出れなくなってしまった。それが二度目のひきこもり体験でした。

貴戸:そうですか。

杉本:そういう二つのひきこもり体験があるんですね。ですから貴戸さんはおそらく「これ」という特別な原因がなく、ただとても強い学校への違和感というものを抱いた小学校時代をお持ちのようですし、同時に同時代に起こった不登校運動というものにも、のちのち違和感を感じるようになった経緯が体験として大きいと捉えてよろしいのかな?と思うのですけれども。

貴戸:はい。

杉本:ぼくも高校を中退しましたから、確かに未来は絶望的だとひどく落ち込みました。でも、それ以上に自分の精神的な「病み」の方で苦しんだ実感があるので、学校に違和感がないことはなかったですけど。それよりも自分の精神状態に困難を抱えていたと思います。ですから前置きが長くなってしまいましたけど、この岩波ブックレットは「現代の就労」とか、大学の学生生活の大変さというか、コミュニケーション能力の必要性というものにこだわりを持つことによって、それが「持てない」と自分で思い込んだり、その能力が無いと思われてしまった人が社会からひきこもったり、学校へ行けなくなってしまったりするのはなぜか?それを貴戸さんは「関係性の個人化」という捉えかたで提起したと思ったんですね。で、「個人化」という言葉は私のひきこもりに関するインタビュー本でも、社会が調整すれば良いような問題も個々に個人化させていくという意味合いで個人化という言葉を教えてくれた先生がいたんですよね。貴戸さんもこの「関係性の個人化」ということで、社会で考えるべき問題がむしろ個人に内省化させられてしまうみたいな観点を提出したと思うんです。ちょっと抽象的ですけど、そこら辺の話から伺えればと思うのですけども。

貴戸:はい。『コミュケーション能力がないと悩む前に』という本は2010年に書いたものです。私は2009年に大学の教員になったばかりで、初めて所属を得た後で書いた本でした。それまでは不登校だったりロスジェネたったり、どちらかといえば構造的に劣位に置かれた立場からモノを言ってきた感覚があったんですけれど、もうそういう視点は通用しなくなったなと思って。マジョリティというか、社会の中で王道を歩いていると見られる人でも問題を抱えているはずだから、不登校から出発しながらそういうマジョリティの問題に切り込んでいけるような視点をこの頃は模索していたと思うんです。その中で「コミュニケーション能力」などという言い方がおかしいんじゃないかとを考えたんですね。

 いわゆる「コミュニケーション能力が高い人」というのは現実にいます。「ナチュラルでいながら感じよく振る舞える人」「自分らしさと人当たりの良さが両立している人」というのはいて。でも、不登校とかひきこもりの界隈で出会う人は、私自身もそうだと思うのですが、なかなかそうはならない。どうしても「自分らしくいて変人扱いされるか、仮面をかぶって感じの良さを演じるか」の二択になってしまい、しんどくなる。そういう人は少なくないと思うんですね。

杉本:そうですよね。

貴戸:そういう軋みを感じている存在が、例えば就職活動の場で「能力がない人」と見なされてしまう。例えば、営業職に応募してきたふたりのうち、ひとりが「ナチュラルで感じの良い人」、もう一人が「どこかギクシャクしている人」だったりすると、やはり「ナチュラルで感じのいい人」の方がモノが売れるだろうということになります。ただ、それを理解するときに、「能力のある・なし」という雑な解釈をするのではなくて、「コミュニケーションにコストをかけるゆとりがその社会にあるかないか」という問題として捉えた方がいいだろうと思ったんですよ。「コミュニケーション能力なんか必要ない」とか、「そのようなものは存在しないんだ」と言いたかったわけではなくて、確かに関係性が”軋みやすい人”というのはいるけども、それはゆっくり時間をかけて、聞く耳を持ってじっくりと向き合えばコミュニケーションできるはずであって、その時間や労力をかけられない社会の問題がある、といったん言う必要があると思いました。そうすると、「あの人は能力がない」と切り捨てて終わりにするのではなく、「私たちはなぜコミュニケーションをとることにコストをかけられないのか?」と考えつづけることができます。

杉本:なるほど。そう考えると私が想像していたことと多少ニュアンスが違っていたというか。おっしゃる通り、いま風に言えば「リア充」というのでしょうか。確かにナチュラルに自然体に聞けて話せるような人は若い人でもいると思うんですけど、私は正直そんなに多くもないんじゃないかと思って(笑)。コミュニケーションにかかるコスト、そこは当然人によってでこぼこがあるでしょう。ただ、いまの話を伺っているとやはりコミュニケーションは大事である。

 その上でコミュニケーションにかけるコストの大事さに対して社会のほうが目を向けていないように聞こえたのですが、そういう認識で良いでしょうか。

貴戸:そうですね。たとえば、「わかりやすく話す」ことがいろんな場面で求められるようになると、通じにくい複雑さを抱えている人はどんどん表出できなくなっていくし、仮に表出したとしても「面倒くさい奴だ」と脇に置かれてしまう。そういうことはあるような気がします。

杉本:それはとても良くわかるところで、例えば仕事で取引先とか営業とかのお客様などに対して、違和感のないスムーズな流れを求められるとすると、その期待と違うサービスを受け取る人は一瞬不安になることはあるかもしれないですね。私もそういう世の中になってきていると思っています。例えば介護の仕事もそうですね。私も親の介護をお任せしている身としてあしらいをうまくやってくれるデイサービスの人とか、訪問ヘルパーの人の姿を頻繁に見ているので、「うまいなあ」とか「安心だな」と思うわけで。もちろんそれは「介護」という専門職の必須な条件ですけど。

 お話を聞いていて思うのは、「コミュニケーション能力」というものがどの程度必要で、どれくらいの幅で世間に広がっているのか?ということですね。親の介護で世話になる身としては介護におけるコミュニケーション能力を持っている人をありがたく思うわけですけど、その幅が社会全体にどれだけ必要になっているのかと。少し思うわけです。それは私が会社員をやっていなくて、会社社会というものを知らないこともあり、普通の職業者にもコミュニケーション負荷というものがいま、相当必要なのだろうかというふうに多少疑問に思うところもあるのですが。どうでしょう?

貴戸:ひとくちにコミュニケーションと言っても、誰と誰がどんな意思疎通をはかるのかによって、その場で必要とされる力は変わってきますね。営業で必要とされるような、相手を自分の磁場に引き込んで結果的にモノを買ってもらう「巻き込む力」もあるでしょうし、「ケア」の領域で必要とされるのは、言葉を超えたところで相手の身体や感情といったものに想像力を巡らせながらニーズを汲み取っていく力だと思います。若者の友だち関係で発揮されるコミュニケーション能力はまた違っていて、共通のノリを作り上げて共同性の中に埋没していくみたいなものです。あまり一般的に言えるものではないだろうと思うのですけどね。

杉本:それ故になお難しいな、と(笑)。場面場面に合わせたコミュニケーションですよね。あとは自分が将来どのような仕事につくのか。同じサービス業でも営業のような「自分の磁場」で生きる才能なのか、相手の想いや気持ちに寄り添ってその先のプラスアルファを考える、例えば行きたくない主訴がある人にデイサービスに来てもらう、ある種の「見えない説得力」みたいなこととか、すごく言語化しにくいコミュニケーションもあるでしょう。おっしゃる通り若い人同士のノリとか、パートナー間でのコミュニケーション。そして就労のためのコミュニケーション。さまざまにあって、やっぱり総合的、ジェネラルで。総じて複雑性が増しているというふうに思うんですけど。どうでしょうね。そこら辺がなかなか難しい人には難しい。

貴戸:そうですね。 ただ、正直なところ私はあまり「コミュニケーションについて考えたい」という関心はないんです。

杉本:あ、そうなんですね。

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