関西学院大学准教授 貴戸理恵さんインタビュー・3


(「コミュニケーション能力がないと悩むまえに」岩波ブックレット 2011)


自分を見るような形で参加する場所

杉本:なるほど。そのように貴戸さん自身支援的立ち位置ではなくても「づら研」というものに求めているところがあるんじゃないかなと思います。それはどこかで貴戸さんの中でここに集ってくるメンバーと共有できる当事者性みたいなものを自分に感じるところがあったりもするのかなと思いましたが。

貴戸:私自身がかなり、スムーズに行かないものを常に抱えているような気がするんですね。ただそれはいまは表面上は何事もないように仕事をしたり、子供を育てたりしているというところがあって、でもやっぱり私自身も不登校へ向けていく私の性質というものがいまも変わらずにあると思うんですよね。それはすごく登校拒否と呼ばれていた頃のモデルと合致するような感じの不登校で、経済的な理由がなく、病気でもないし、学校に行かなければならないという規範は持っているんだけれども、なぜか行くことが出来ないという、そういう登校拒否像に割と当てはまる不登校をしていましたから。その中にあったのは「こうあらねばならない」という風に社会が私に期待をし、それを十分に知っていて、その通りにしようと努力もするんだけれども、でもそうは出来ない。そして自己嫌悪が膨らんで、そうするとさらに「こんな風にならなければいけないんじゃないか」という規範の縛りが大きくなって、さらに踏み出すハードルがあがっちゃうような。そういう悪循環の中に自分を追い込んでいく。そういう資質がやっぱり今でもあると思うんですね。それは子供を育てていたり、仕事をしていると出てくる。で、「づら研」に来ている人たちはそういう形の生きづらさを持っている人もいるし、そうではない生きづらさを持っている人もいるし、いろいろなんですよね。私はやっぱりそういうものを参加者の中に見ると自分自身を見ているような気持ちになりますし、触発されてそういう自分の話を話したりします。そういうことはありますね。

杉本:そこはご自身の不登校を社会との関係の中で、変えようがない自分をどう社会と関わらせていくかということを一生懸命考えて来られたから、その言葉を「これは正しいと思う」というような内容で書けていけるんだと思うんです。例えば先ほどの「関係性の個人化」の話などですね。

で、おそらく貴戸さんが感じ、分析して、同時に自分自身も不登校であったことを著作の中で必ず触れられているところの意味の大きさは、ひきこもりの人であれ、不登校経験があって生きづらい人であれ、あるいは頑張って働きつつも、なかなか大変だという人であれ、似たようなケースであるというか、普遍性がある“社会とうまくコミュニケートできない”という現象なんじゃないかなと思っていて。先ほどナチュラルに社会と関われる人がいるという話がありましたが、同時に貴戸さんのように悩んだ人たち、あるいは悩みながら生きている人たちが結構いるのはある意味普通なことではないかと。いまはそういう風な認識が世の中に溢れ出てくるところまで来てしまったと言えるのではないかという気がするんですよね。私は貴戸さんより一回り上以上になっちゃうのでなおさら自己説明が難しくなっちゃうんですけど、逆に60歳になって、親の認知症が大変だと言っても、年金でも生きてるというところがあって、「フルで働かなくてはまずい」という現代固有の深刻さからはちょっと距離が置けたりする所があるんです。だから昔ほどには社会との折り合いがつかないことでの深刻な苦しさはほんの少し薄らいでいるのかもしれない。

貴戸:うん、うん。

杉本:まだまだ難しいんですけどね。もちろん一般化されない部分があるでしょうけれど、「特異ではない」という感じになってきているかなという気がします。そこは貴戸さんの新刊で挙げられた多くの人たちの体験からもそう思います。私の本(「引きこもる心のケア」)の監修をした先生は、心理学の合理的な説明、社会学の合理的な説明。ひきこもりへの説明は両方それなりの説得力はあるけど、総合的にひきこもり現象を考えるとき、両者がうまくつながっていないという問題提起をされていたんです。いわば後期近代の固有な自縄自縛性というのかな。学校なり会社へ行けない自分を他の人はこう見るだろうというところで改めてすくんでしまう人の心理を貴戸さんは「社会性がない」のではなく、逆に「社会性が過剰なんだ」というふうに話を展開された。ぼくなどは「まさにその通り」という風に思うわけで。社会はこういう風に我々に求めていると空想するけれども、それができない苦しさみたいな形で主観的に出会っている。それが我々のコミットメントの難しさだと思ったんですよね。でも、そのこと自体をいまの貴戸さんの中に問題意識としてあるのかどうかというのが思うところです。

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「づら研」― 人が「生きづらい」というとき、それを本人の問題(発達障害、精神障害etc…)に限定してしまうのは、問題を歪めてしまってます。こんなキツキツの社会で、生きづらくない人なんているのかと思います。しかし一方で、「社会の問題」とばかり言っていても、自分の生きづらさが解けるわけではありません。自分の生きづらさ、抱える「問題」からこそ、“自分”を通して見える“社会”があり、そこから関係のあり方を模索することができるのではないでしょうか。そこには、自分にしか解けない問いがあるのでしょう。それを「研究」という切り口で、他者と共有していくことができないか。そうした思いから、「生きづらさからの当事者研究会」、通称“づら研”を始めます。関心のある方、どなたでも、ぜひお問い合わせください。(づら研ホームページ「呼びかけ文」より)

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