見出し画像

no. 13 続ひとりドラゴン桜(笑) 宅浪生活2年目

新しいことを取り入れた宅浪2年目

 さて,1浪目の戦いに敗れた私の春休みが始まった.私はニート状態なので休みを誰が決めるわけでもないが,自分で勝手に春休みと呼んでいる.この時期は,おそらくゲームをして過ごしていた.ゲームソフトなんてどうやって買うのかという問題が出てくるが,勉強に明け暮れる日々で趣味も消失し,金を使わなくなったことから若干の蓄えがあったのが幸いしたのである.中学の時に弟と結託して作ったゲームスペースも,相変わらず私の部屋に健在だったのだ.気の抜けた日々を過ごした後にやる気が戻るかはかなり心配だったが,4月の開始と同時に体は勉強モードに入った.といっても,私はすっかり自信を失ってしまっており,気分転換も兼ねて何か新しいことをしたい気分にもなっていた.ということで,受験勉強の傍ら普通自動二輪免許(中型バイク免許)を取得することにした.バイクというと何故か普通自動車より簡単な試験だと勘違いしている人がいるようなのだが,筆記試験の内容は普通自動車と全く同じなのである.従って,自動車学校における学科の授業,免許センターでの筆記試験も,二輪と四輪は区別されることなく同じ教室で同じ内容を受ける.唯一,バイクを使った実技という教習内容が違うだけなのだ.さて,この免許を取得するという流れは,失われた私の自信を取り戻す上で大変役に立った.おかしな話であるが,当時の私は,どんな試験にも受からないダメ人間なのではないかという疑いを自分に向け始めていたのだ.とは言え,普通自動車の試験など所詮はマル/バツの2択なので,自動車学校での模試から本番まで一度も落ちなかった.普段は東大の入試問題に向かっているのだから,それから比べたら簡単も良いところであったのである.考えてみれば,私はこの時まで資格というものをとったことがなかったので,これを機に少し社会に認められたような気がして,心が一瞬楽になった.19歳という,当時の成人年齢を迎える直前というタイミングも良かったと思う.また,無事に免許を取得したことにより,今まで自転車しか移動手段がなかった状態からバイク移動が可能となった.早速,父の仕事仲間であるバイクマニアに250 ccの単車を売ってもらい,駅までの移動を効率化した.次に,少しは金を稼ごうということで,親戚の家庭教師を何件か引き受けた.大学に受かっていないとはいえ,中高生の勉強程度であれば簡単に教えることができたのである.自給は千円ちょっとであったが,自分で金銭を稼いだ経験は免許と同じく自信に繋がった.もしかしたら,それまで勉強しかしていなかった自分が脇道に逸れ出したように見え,周りは心配したかもしれないが,私にとっては一定以上意味のある必要な時間であったと思う.弟は京大に通い始めたが,家では大学の話をほとんどしないようにしてくれていた.勉強だけでなく人間もできていて少し腹が立つ,というのは冗談で,このことには本当に感謝している.すぐに自分の話をしたがる私は,こういった自己表現の我慢を要求される芸当がとても苦手なのである.

人の言葉ではなく自分と向き合うことの大切さ

 さて肝心の受験勉強の方であるが,こちらは力が伸びているのかどうかはっきりとした実感がつかめない状態が続いていた.加えて,周囲の目が少しずつ私を追い詰めていった.東大を目指す,と息巻いたものの1年で成果が出ず,高校生だった弟が京大に現役で受かってしまう光景に,親戚も私のことをナメ始めていたと思う.出来の良い弟のせいで,中卒だらけのはずの親戚連中の価値観が完全に壊されてしまっていたのだ.そんな空気を私自身も感じ,精神がダメージを受けていた.1浪で地方国公立に受かった同級生にも「そろそろ現実見ろ」と言われてしまった.ただ,1浪を経験した同級生の言葉は考えて発せられていたからなのか,叔父から受けた言葉と比べるとさほど腹は立たなかった.しかし,その一言で方針を変えることはせず,私は黙々と机に向かう日々を過ごした.同じことの繰り返しなので,1浪時代とは異なり,2浪目は妙に時間が早く経過したのを覚えている.ただ,別にバカになっている感じもしなかった.とにかく自分の信じたことをやるしかないと,勉強法にマイナーチェンジを加えてひたすら叩き込んだ.また,勉強時間も伸ばした.1浪の頃は図書館の閉館に合わせて帰宅していたのだが,近くの公共施設の談話室のようなところがフリースペース化していたので,そこで夜9時か10時くらいまで勉強することにしたのだ.おそらく,これは二浪の夏以降の話だったと思う.とにかく大事なことは,現役生の時より1浪時の方が,実力は圧倒的に上であったことなのである.また,予備校に通って浪人していた同級生たちに完全に勝ったと判断できるだけの材料もあった.成果が出ていなくともスコアが伸びたという事実がある以上,このような方針は間違っていなかったと思う.ただ実は,志望校を下げて2浪を回避した多くの同級生たちに対して嫉妬する気持ちが少し生まれた.そんな中でも,やはり私にとって向かい合うべきは同級生でも弟でもなく自分自身の実力なのだと理解ができていたのだと思う.ギリギリだったかもしれないが,自分に足りないものを直視することは,最後までできたと思う.人の言葉を無視するのではなく,その言葉を自分と向き合う材料にできたことが良かったのだろう.

癌になった親友とつるむ昼休み

 実は,宅浪2年目には大きな事件もあった.幼稚園からの親友であるMが癌になってしまったのだ.釣りをきっかけに仲良くなったMである.Mとは高校時代毎日電車で一緒に通っており,夏休みに泊まりにいくなどの習慣は宅浪を開始してからも続けていた程に仲が良かった.浪人していた筆者と異なり,Mは推薦で現役合格を勝ち取って岐阜の短大へ進学していたので,学生生活を送る中での発病ということになる.当時,私とMは20歳であり,癌としては明らかに若年のまれな発症であった.あまりに急なことであり,Mは通っていた岐阜の短大を休学して地元に戻っての入院と治療を行っていた.周囲には秘密にしていたが,私にはそのことを打ち明けてくれたのである.またどういう縁か,私の勉強していた図書館からMの入院した病院へは徒歩で移動することができた.なので,彼の入院以降は昼食後のお見舞いが私の日課となったのである.この時は本当に色々なことを話したが,やはり昔の思い出,今取り組んでいることなどが話題の中心だっただろうか.受験と癌治療ではかけているものが違いすぎて私の戦いはちっぽけであるが,共に困難に立ち向かっているという感覚があった.なお,Mとは今もたまに遊んでいる.

ゲロとゲリのち3度目受験

 さて,あっという間に三回目のセンター試験が近づいてきた.東大模試は受けていたが,成績は芳しくなくE判定であった.おそらくこれは秋頃のことだったと思うが,思うように実力が伸びないのは不安であった.実は年末に別の大規模な模試を受けて実力を判定する予定もあったのだが,私はこれをサボってしまった.ノロウィルスに感染してしまい,模試どころではなかったのである.このウィルスは本当にタチが悪く,上から下から出てくるものの制御ができなかった.思わぬ形で,私は強制的な頭の休養を強いられることになったのである.なお,ノロは弟にも感染したが,父は一人感染せずケロッとしていた.汚れたパンツを爆笑しながら洗ってくれた父には感謝している.さて,しばらくしてボロボロの状態から何とか復帰したわけであるが,試験までそれほど時間は残されていなかった.とにかく,第一志望東大のまま,私は三度目のセンター試験に挑んだ.

I can 迷わずにぃ〜進もう〜♪

 この年になると,試験会場で同級生と共に受験する機会はもうなかった.若い現役生に囲まれながら,相変わらずの金髪で淡々と試験を受けた.休み時間には必ずチョコレートを2カケラ食べ,集中力を高めて次の科目に臨むという作業を,ただ繰り返したのである.当時,ドラゴン桜という漫画原作のドラマが流行っていた,というか,最初の放送が好評だったため受験シーズンに合わせて再放送するようになっていた.そのドラマの中の一節「試験とは出題者との対話.試験とは,己との対話」を心の中で毎回唱えていたが,恥ずかしいので本当は書きたくなかった.ただ,このセリフは試験問題に向き合う気持ちを整理する上では結構役に立っていた気がする.目の前の試験問題には必ず答えがあり,出題者はそれを知っている.そのヒントは問題文に意図的に散りばめられているのだから,出題者の意図を汲め,と.また,その正解に行き着くための知識や発想は自分の中から引き出すしかないので,その点で自分との対話,ということだと解釈している.2日間の試験を終えた次の日の夜,自宅のコタツで新聞に載る解答を片手に自己採点をした.結果はほぼ9割を達成しており,3年目にしてようやく安心できる点数を取ることができたのである.年が異なるので単純比較はできないが,得点率であれば前年の弟をわずかに超えていた.これは,第一関門をほぼ突破したと判断できる状態だったと思う.

大きな選択と弟(ラスボス)が最強の味方だった話

 東大の問題には苦戦する日々が続いていた.やはり難しいのである.昨年落ちた阪大の問題も解いてみるのだが,こちらもやはり難しかった.と,私はここであることに気づいた.京大の問題を解いたことがなかったのである.幸い,京大受験・現役合格の経験者が家族にいることから,赤本は簡単に手に入った.試しに数学を解いてみたのだが,本当にびっくりしたことに,非常に簡単に感じたのである.「え?解ける!」しつこくて申し訳ないが,本当に不思議だった.偶然に一問だけ解けた,ということではなく,多くの問題を自力で解くことができた.また自力で解けない問題も,解答例を見ることで必要となる発想を比較的容易に理解することができたのだ.この経験に光を見出した私は,志望校を京大に変更するという思い切った決断を下すことにした.京大対策に残された時間はわずかであったが,その可能性に賭ける価値があると踏んだのである.京大対策を始めてからの勉強は,比較的順調に進んだ.過去問を解く過程で,我流の勉強法で突っ走る中で撒いた種を回収し,線で繋ぐような作業をしていた気がする.例えば,京大二次の英語は英訳と英作文しか出ないという非常に単純かつ合理的な問題構成なのだが,これは私がZ会の単語帳の長文読み込みと英作文のパターン暗記でやっていたことを最大限に発揮できるものであった.また,地の利もあった.試験会場は当然京大なのだが,ここは弟が毎日通っているキャンパスであり,聞けば最も確実な行き方を教えてくれる.確か,試験会場の下見さえしなかった.本番には,いつもの調子でド金髪にメッシュを入れた危ない風体で臨んだ.案の定,数学は調子が良く,そのほかの科目もそれなりに解けた.2日で全ての試験を終え,後は合格を待つのみである.実は,今回の試験には手応えも感じていた.自分の感覚では,数学が6問中4問完答,2問半答だったのである.英語もまぁまぁできた気がしていた.もちろん浪人生活ですっかり心が壊れてしまった私がそんな甘い想像に浸れたのは一瞬だった.自分のことを全く信用しておらず,今年も落ちる,と結局すぐに悪い方向の想定をしていたと思う.もう少し正直に書くと,自信があるような気持ちを持つことが怖かった.落ちた時に辛いのはもちろんであるが,もし自分以外の人に多少なりとも自信があるような感じを見せてしまった場合,それこそ落ちた時に格好悪くて恥ずかしくて仕方ないからである.

シークレット日程〜中期日程受験が教えてくれたコト〜

 さて,2008年は前年と少し事情が異なる点があった.京大は看護学科以外の後期入試を設けていなかったので,工学部志望の私は実質前期一発勝負となり,後期は別のところに出願する必要があったのだ.そこで後期には,昨年と同様の大阪大学に出願することにした.また,2008年には中期日程にも出しておいた.中期日程とはその名の通り前期と後期の間に設けられる試験で,数は少ないもののいくつかの大学が採用している入試日程であった.さいわい,大阪府立大学という比較的近くの公立大学に中期日程があったので,出しておいたのである.実はこの中期日程に出願する人はかなり多いらしく,それこそ京大や医学部など難関校の滑り止めの穴場としてよく活用されていたようである.中期日程は前期日程の合格発表より前に実施されるので,私は大阪まで足を運んで試験を受けた.少し失礼な言い方であるが,ここで私は初めてそれほど難しくない大学を受けることになった.さて,いざ受けてみて思ったことは「問題がめちゃくちゃ簡単」である.ほぼ全ての問題が解けてしまい,驚くような肩透かしを食らった記憶がある.過去問すらやっていなかったので,本当に驚いた記憶がある.既に受験は終わっているものの「京大に落ちてここに受かっても,通うのはやめよう」と,休憩時間のトイレで誓った.失礼な話であるが,二年も社会から孤立し色々とおかしくなっている時期だったので許して欲しい.わかったことは,可視化されていないだけで自分の勉強の成果はそれなりに出ていたということである.考えてみれば,2006年夏のセンター模試以降,東大模試,阪大前後期,京大前期しか受けていない(最後の模試はノロ感染で飛んだ).実力を判断する材料としての偏りが大きすぎて,自分の実力をどこかで低く見積もっていたのだろう.

孤独な戦いが終わるとき

 さて,後期試験の開始を待たないまま,京大の結果発表の日がやってきた.私は以前,結果発表の確認に現地まで行って(しかも親戚を連れて)痛い思いをしているので,そのようなことをする気にはならなかった.とはいえ結果の確認は必須なので,インターネットでの確認を行うことにした.ただ我が家にはネット環境がなかったので,当時一人暮らしをしていた友人のMT君に頼んでネットを使わせてもらった.ここでの登場は久々であるが,小学校低学年の時にA田先生からビンタをくらった彼である.結果を見るのは本当に怖かったが,何をしても合否が変わるわけではない.どういう心境で心のスイッチを入れたかは覚えていないが,とにかく勇気を振り絞って見ることにした.

 合格者一覧に自分の受験番号を見つけた時の気持ちは,びっくりというのが正しいだろう.「ある!」とか「受かった!」と言った記憶はあるのだが,衝撃が大きすぎた.MT君にも「俺の番号あるよな?」と言って確認してもらい,彼にはその場でお祝いの言葉をもらった.次に,すぐに父親に電話した.少しいたずら心が出てしまい,「ダメだった・・・」と一回嘘をついて困らせてしまったが,実は受かっていたことを言うと本当に喜んでくれた.親として,子供を食べさせる責任をいつも説いていた父は,息子二人の進路が定まったことに本当に安堵したのだと思う.その後,結果を高校の先生にも報告した.一人だけ,卒業後も私の進路を気にかけてくれていたN先生という女性の先生に結果を報告するためである.「やった!あなたは本当に自分一人で勉強していたの?ぜひ合格体験記を書いて欲しい」そんなことを言ってもらえたと思う.私に「現実を見ろよ」とアドバイスをくれた友人にも報告し,おめでとうと言ってもらえた.なお,この一件でMT君に大きな恩ができた.合格確認のためにネットを貸してくれ,しかも一番に祝辞をくれたのだ.この時のことは,今でも年に一度くらいは話題に出るのである.さて,興奮冷めやらぬままバイクで家に帰り,家族全員が上機嫌で過ごしていたと思う.私は言うなれば家の爆弾で,はっきり言ってかなりやかっかいな存在だったはずだ.本当に,よく耐えてくれたものである.

 さて,私のことを弟の7割と言った叔父にも報告したが,電話で短く「叔父さん?京大受かりました」と言ったのみだったと思う.「弟の7割の出来」の件は私にとって深い傷以外の何者でもなく,もちろん怒りは収まっていなかったためあまり話したくなかったのだ.言われたことを思い出すたびに勉強中も反射的に手が止まりやる気がなくなってしまうのだから,つくづく「悔しさをバネに頑張る」という言葉は現実に当てはまらないのである.
 なお,叔父はこの日以来私たち兄弟のことを自分の家庭でずっと褒めていた,と,叔父の娘や孫が後年教えてくれた.この後年というのは,私が博士課程を卒業する直前,つまりの入学から9年後の叔父の葬儀の場であった.私たち兄弟のことが大好きで,ずっと二人の話をしていたよ,とのことであった.自身の発言を悔いていたかどうかはわからないが,弟との才能の差を自覚しながらも腐らずに独学で京大まで上り詰めた私のことを,多少は見直してくれていたのであろうか.よく考えると,叔父との不和は浪人生活の歪みで生まれたものなのである.もしも1年でもっと学力が伸びていれば,もしも予備校に行く金が調達できていれば,ひょっとすると,そのもしもは高校出願をした瞬間かもしれない.状況さえ異なれば,叔父に対して腹を立てたまま葬儀を迎えることはなかっただろう.実は,葬儀に行くかどうかさえ迷う程度に,9年経っても怒りは収まっていなかったのである.そんな中にあって葬儀への出席を決め,この言葉を聞くことができたのは,せめてもの救いだったと思う.

 この合格発表の日の夜,父は酔っ払って羽目を外しすぎ,家の中の窓ガラスを足で割って少し怪我をしてしまった.垂直に設置されているガラスを足で踏み抜いたあたり,当時の浮かれようは普通でなかったのだと思う.この日は,人生で最高の日の一つに数えても良いだろう.

あとがき

 今回も,あとがきをつけることをご容赦いただきたい.この京大合格を勝ち取る回は,自分の人生でもかなり大きな意味を持つ瞬間を綴ったものである.冷静に分析すると,独学・宅浪で誰にも何も教えてもらわないまま京大の試験を突破した体験の発信などそれなりにレアである.それと同時に,決して少なくないエピソードに決着がつく瞬間でもある.厳しい言葉をかける叔父,異なる道をいく同級生,ただただ強力な弟,病に倒れる親友,…挙げればキリがないが,色々あっての合格であり,当時の私には受け止めるのが大変な,大きな変化であった.
 理屈で組み立てた宅浪勉強法,ロジカルな説明が通用しない人間関係やトラブルといった泥臭い力学作用が渦巻く状況の中で勝ち取った京大合格という結果に,筆者の人生は大きく救われたのだと思う.またこれを独学で成し遂げたのが18〜20歳という年齢にあった自分自身,しかも孤独に1人で2年も独学で宅浪していたということにも,改めて驚かされる.無茶したなぁと.
 もちろん現役合格を成し遂げている方々に比べれば大したことはないのだが,出発点が低いという点でそういった方々にはない体験をしているのではないだろうか.本自伝小説が一つの逆転ストーリーとして参考になることを願う.

K. HISAKAWA

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集