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寺田の「人生ってなんだ?」その2:SNSで傷つけ合う人びとってなんだ?

どーも!寺田です。

さて、突如始めた連載「人生ってなんだ?」の第2回目に突入しました。とりあえずあと2回続けば、晴れて僕は三日坊主ではないことになります。(目標は低く設定した方が良い時もあるのです)

前回は…何を書いたのか忘れましたが、確か、

人は他者を傷つけなければ生きていけない生き物だ

的なことを最後の方に書いた気がします。

他者というのには、人間だけでなく、動物や植物も入ります。生きるためには、食べなきゃならない。

余計な話になるかもしれませんが、僕からすると、一部のビーガンは差別主義者と思われても仕方がないのです。牛や豚の命と、野菜の命を、差別しているからです。現在、多くのビーガンの人たちは、肉より野菜の方が生命倫理の観点からして、いくらかマシだから、野菜を食べているだけでしょう。

(もしもポケットモンスターのくさポケモンのごとく、野菜に「声」があったなら、ビーガンも野菜を食べなかったんじゃないでしょうか…?そうなれば、人間が他者を傷つけずに生きる道といえば、いよいよ霞を食べて生きる仙人になるくらいしかないでしょう)

では、他者を傷つけることは、良いことなのか?悪いことなのか?…この辺をよくよく考え始めると、人間は誰しも迷宮に入っていきます。ビーガンの話にも繋がってきますが。

たとえば戦争は、仲間(家族や友人)を守るために、他者(敵)を傷つける行為です。二兎を追う者は一兎をも得ずという有名なことわざがありますが、これはズバリ戦争のことを言ってるのではないかと思う時があるのです。

戦場では「敵も味方も、どちらも傷つけたくない」という曖昧な状態では、右往左往しているうちにやられてしまうでしょう。結果、大切な者たちも失うことになります。

そして人間はそうなった時、自分に近い方、つまり、自己や、あるいは味方を守るために、銃のトリガーを引く生き物なのです。敵を守るために戦う者はいません。(理想としては結構ですが)

さて、話を戦争という非日常から、もっと身近な日常へ引きつけてみましょう。

たとえば、SNSでは、それこそ「なんでだ?」と思ってしまうくらいに、日々、人と人が傷つけあっています。挙げ句の果てに、命を絶つ者たちも出てくる始末。これでは戦場となんら変わりはありません。

いわばSNSとは、言葉、つまり価値観という弾丸が飛び交っている戦場に他なりません。

SNSで何かを発信することは、すなわち価値観を発射することです。

重要なのは、必ずしも分かりやすい悪口だけが、他者を傷付けるわけではないということ。

たとえどんなに楽しげな家族写真をアップしても、それを独身の、未来に希望の無い人間がみたらどう思うでしょうか。

「そんなこといちいち考えてSNSができるか!」と思うでしょうが(そして僕自身も、普段はそんなこと全く想像してませんが)、根本的に思考すると、そういうことなのです。

そしてここからが重要なことです。

楽しげな家族写真や、自分が好きなミュージシャン、アイドルの情報、あるいはこのnoteのように、自分自身の考えた文章などなど…。

僕は、そのような「価値観の発射」は、たとえ他者を傷つける可能性があったとしても、遠慮せずして良い、するべきなのだと思います。それは他ならぬ、自分自身を肯定するためです。

言いたいことを言っていれば、必ず誰かを傷つける。しかし、言いたいことを言わなければ、それは自分を傷つける。それなら、言いたいことを言いましょう。他人の言葉への耐性が弱いのは、あなたの問題ではなく、あなたの発した言葉を受け取る側の問題なのですから。

僕は否定の言葉が必ずしも悪いとは思いません。「悪口をやめろ」という言葉も、否定なのですから。

同じ否定の言葉でも、考え抜いた末の自分自身の価値観からではなく、単にその場の空気を読んで口からポンと出た言葉だったり、こう言えば、マウントが取れるだろう…など、そのような浅ましい考えで放った時に、おおかた否定の言葉は、悪口に変わるのです。悪口と、正当な評価は、パッと見似ていても、まったくちがいます。

日本はどちらかと言えば、「トリガーを引かないで(思ったことを言わないで)みんな仲良く」が重視される文化があると思います。

ヨーロッパにその端を発し、明治維新以降、日本でも目指されてきた、近代的市民(いきなり難しい言葉を出してスイマセン)とは、自分の考えを持って、それを言葉にして、議論ができる人たちのことです。

日本は歴史的に、ペリーの黒船に脅されて、しょうがなく近代化した民族であるため、未だに近代的な思考の枠組みが浸透していないのが現状です。

そして僕はその前近代性こそが、現代のSNSの、とてもムラ社会的(気に入らない人間を爪弾きにせよ!)な暗黒面の元となっているのではないかと思うのです。

これまでの話で、「悪口はいけない」と学級委員長的に、ビシッと言っているだけでは、現代のSNSの状況は改善されないことがお分かりいただけだと思います。それは、悪口そのものが、曖昧で、定義が難しいものだからです。

どんな発言をしても、どんな投稿をしても、傷つく人は出てくるでしょう。それならいっそ、空気を読んだ悪口ではなく、価値観の発射をしたほうが有意義だと思います。

つづく










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