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Kelvinの仕(私)事記(二)|〜日本留学編〜

皆様、こんにちは!日中越境ビジネスの架け橋_Kelvinです。
前節には、簡単な総括を紹介したが、本節は私の日本留学について語ろう。

現在は、2010年から11年を暮した日本から母国に帰って、
実家の上海でフリーランスの仕事を始めようとしたところで、
結論から言えども、今でもその選択はめちゃ良いし、正しかったと思う。

留学経験から得たもの

・学習能力

大学院に進学しても、ほぼ自分で学習することがほとんど。指導教授も学部の授業や自分ゼミの生徒を面倒見ないといけないため、院生の研究や卒論は基本で自分が完成するようにしなさいと。

当初は、マーケティング基礎のことをゼロから学び、書籍から基礎のことはもちろん、筆者の実践経験に基づいて検証されたことも紹介されるため、かなり有益なものが得られる。おすすめするのがフィリップコトラーさんとピータードラッカーさんの2大マーケティング分野の権威学者。

ただ、本を読むだけでは、基礎知識までは学べるものの、仕事の実践経験がないとやはり理論まで留まってしまいがちなので、特に事例研究が必要とされる修士課程の卒論においては、仮説を立てた上での検証が必要だった。

そのため、事例研究の一つである『京野菜』の行政機関に尋ね、実務担当者の方に直接地域ブランドの諸々についてヒヤリングすることにした。地域ブランドを作るきっかけから、コンセプト設計、マーケティング施策の立案&実行、効果測定まで各ステップの隅々まで確認し、結論まで結び付けた。

今でも覚えているが、修士論文を書くのに必死だったし、結構鬼だった記憶は今ですら覚えている。自分の周りの留学生たちも、修士論文発表の1ヶ月前に急遽研究テーマを変えろと指導教授に言われるケースもあった。

幸いに、1年ぐらい修士論文のため、事情調査のため京都府庁まで足を運んだし、過去の文献資料も参考にし、自分の卒論にまとめてみた。なお、バイトの時間もある程度犠牲にし、無事に卒論が合格できた。

・自力での生活能力

大学卒業するまでには、ずっと実家で両親と暮したため、ほぼ家事や食事を心配する必要はなかった。家に帰れば、母が食事をいつも用意してくれるし、家事だってせいぜい手伝うぐらいの程度だった。

最初、日本での留学生活を始めた際、家事はそれほど苦労したことはなかったものの、自分の食事を作るのに結構大変だった。3ヶ月間の生活費しか持ってこなかった自分に、ピンチまで押し込んでみて、一体どんな器だったかを試してみたかった。とにかく自分の食事を何とかしないといけなかった。

生活費をどう節約するかが毎日頭を悩ませた。で、同じシェアハウスに住んだ人から教われ、毎日21時以降に、近くのスーパーに割り引いた弁当や、惣菜などが平均で200円ぐらい処分されるとのこと。

さすがに毎日スーパーの廃棄品を食べるわけにはいかないので、自分でちゃんと料理を作れるようにしておかないとまずいなぁと思い、自炊生活を始めたわけだ。最初はやはりまずくて、実家に暮した僕はいかに幸せだったことを改めて実感できたし、母へ感謝の気持ちが一生忘れない。

今の自分は、簡単な家庭料理はもちろん、飲食業でのバイトも4年ぐらいをずっとやっていたので、和食もできるし、日本にいた頃、毎年の旧正月でいつも友達を誘い、自宅でホームパーティを開催するのもいつも自分が料理担当だった。

・日本語以外のスキルの必要性

そこは一番重要なポイントだった気がするところ。大学院に進学する際も、就職する際も、そちらを感じたわけだ。元々、大学は母国で日本語を専攻したが、経済はもちろん、経営学のことについても何もわからない状態だった。

特に、日本の大学院に進学する際、そもそも出身分野は合っているかどうかを結構チェックされ、なおかつ希望する指導教授の研究分野とうまくマッチするかどうかも細かく審査される。その理由で出願を受け入れられない学校もあり、日本語専攻の出身がどんな学科に応募しようとも、出願ですら受け入れられない可能性が大きい。元々の専門分野の知識を持った上、日本語能力もそこそこにあった方が合格に繋がりやすい。

もし、日本への留学を検討しているなら、言語はあくまでツールでしかない、+αの武器を持っておくとさらに強くなるはず。そこをちゃんと参考にしておいてください。

バイト諸事情

3ヶ月間の生活費しか持ってこなかった為、お金や余裕はなく、自分1人で食っていけるように3ヶ月以内で絶対バイト先を見つからないといけなかった。

今は懐かしく笑いながら思い出せるが、当時TOWNWORKというフリーペーパーに載っているバイト先に、吐き気が出るぐらい毎日電話を掛けてまくった。3ヶ月で1000軒ぐらいのバイト先に電話を掛けた結果、10件ぐらいでしか面接を受け入れてくれなかった。一番多い理由は、うちは接客業なので、日本語がそこまで上達しない外国人は一切受け付けないとのことだった。10年後の今、東京都内で外国人スタッフがいないコンビニーや飲食店などほぼ見つからない。良くも当時外国人労働者を馬鹿にしたねといつも思った。

最後、住まいの近所にある回転寿司『がってん寿司 西青木店』と王子駅から徒歩10分のスーパー『肉のハナマサ 滝野川一丁目店』の掛け持ちでバイトすることになった。

当時、外国人留学生には毎週資格外活動許可というものがあり、一週間28時間の労働は認められるものの、それを超えた場合、処罰を受ける可能性があった。それを無視する人たちは、平気で3ヶ所でバイトを掛け持ちし、月収で40万円を稼ぐ留学生も周りにいた。

【外地人】に対する偏見

正直、大学を卒業するまでには、全国から上海に来た『外地人』をずっと見下した。常識ないし、ルールだってロクに守らない。

しかし、自分が日本への留学に来た時最初できた友達はいわゆる『外地人』だった。日本に来て1ヶ月もなかった時のある日、当時同じ日本語学校に通っているクラスメートに誘われ、初めて中華料理屋でご飯をご馳走してくれた。

その出来事があってから、僕が『外地人』に対する偏見が一気になくなった。彼らも将来のため、自ら親から遠く離れ、わざわざと険しい道のりを選ぶわけだ。彼らを見下す権利も実力もない自分に、いかに愚かだったかが改めて実感できた。実は、全国から上海に来た外来人員も同じだ。地元でお金を稼げる職業もないから、あえて実家にいる両親や親戚を置いて、自ら苦しい生活を選ぶ勇気は尊重すべきだと思う。

社会人になってからも、仕事で同じ中国出身のものと知り合う機会が結構増えていく中、特にどこ出身と問わず、皆同じ国で、なお日本で頑張っている人なので、誰かが苦難と迎える際、周りの人たちが一丸になって、お互いに協力し一緒にその壁を乗り越えていくことで手助けする人ばっかりだった。本当にこの11年間で色んな方と出会い、いろんな人にお世話になったからこそ、今はこうやって母国に帰ってのんびりしてブログを書いている私がいたと思う。本当に皆様に感謝の気持ちでいっぱいでして、いつの日に必ず恩返しをしようと思う。

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予告

次回は、自分のキャリア人生の振り返りについて語ろうと思います。今まで国際見本市で得た成功&失敗体験、Webマーケティングの諸事情、また直近中国越境ECの仕事で感じたことなどまとめて送りいたします。ぜひごらんください。


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