「呉座先生事件」に思うことと、「分断の時代を真剣に超えるオードリー・タンの知恵」が身近な活動家にも理解されていない話について
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「呉座先生事件」に思うことと、「分断の時代を真剣に超えるオードリー・タンの知恵」が身近な活動家にも理解されていない話について

倉本圭造

(トップ画像はウィキペディアより応仁の乱の絵巻)

今回の記事は、2つの最近SNSであった”議論”について書くつもりです。

一つは、呉座勇一さんという日本史学者の方が、北村紗衣さんという英文学者さんにネット上で暴言を吐いた・・・と言うことで謝罪され、来年の大河ドラマの監修を降板することになったという事件。

そしてもう一つは、最近私が書いた、社会に「新しい考え方や制度」を導入する時に、台湾のオードリー・タンの「その社会の古い伝統を攻撃しているわけではない」と常にアピールする配慮がある振る舞いが非常に参考になるのではないか・・・という記事↓

が、結構好評で広く読まれて、ツイッターのフォロワーさんが急激に増えたりした反面、エゴサーチをしていると、こういう見方は

「台湾の現状について事実誤認だ。台湾でも活動家は必死に運動していて、決してナアナアな平和的解決が起きたわけではない。この記事は異議申し立てを黙らせようとしている”トーンポリシング”だ」

・・・という批判も多く寄せられているようで、その事について書きます。

(何人かの反論者には直接ツイッターで会話したりしたんですが、今は数が多すぎて追いつかなくなっているのでこの記事でまとめます。一言で言うなら「活動家」の運動を確かに過小評価した記事になっていたことは謝罪するが、しかし批判者のツイートや関連記事を読むと、そういう”活動家寄り”の人たちは、”同性婚実現の最後の決定的なひと押し”になったオードリー・タンの”魔術的な知恵”の部分をほとんど理解していない事が多いように見受けられたのでそこを考えてみてほしい・・・という内容です。)

なんか結構大きく違う事件を一個にまとめているように感じるかもしれまんせんが、これらは同じ根っこを共有する「ある大きな一つのすれ違い」が社会にあるがゆえに、「ミクロな一個一個のすれ違い」についてどちらが悪い・・・という話だけをしていてもどうしようもないと感じるわけですね。

私の言論活動について長いこと追ってくれていた人にはわかると思いますが、

決して「反対者・異議申し立て者」を黙らせたいわけではない

わけですね。そうでなくて、

「黙らせないで済むようにする」

ためには、

「今被害を受けている当事者」と違って余裕がある第三者が、その「ミクロのすれ違い」でなく「マクロの問題解決」について協力しあって社会を前進させるようになる必要がある

わけですよ。そうしないと、

「ミクロのすれ違い」ゆえの暴言の応酬は残り続けるし、”差別的”な行為をする人の数も減らずに残り続ける

わけです。

「差別的」なことをする人にいくら「間違ってる!」って強烈に攻撃するだけをしてもそういう人の数はまあ減らないよね・・・というのは、日本だけでなくあれだけ国をあげて「差別者を攻撃」するキャンペーンをやったアメリカでも延々問題が燻り続けていることを見てたらわかるというか、それどころか「その高圧的な態度がムカつくからもっとやってやるぜ」みたいなエネルギーをさらに焚きつけることになっているわけですよね。

これは「異議申立てをやめろ」とか「もっと優しい言葉で言え」とかそういう話ではなくて、「異議申し立てを思う存分やっても壊れないような共有基盤」を作っていくマクロな問題解決を別立ててでやらないと、「ミクロな問題」でいくら非難の応酬をしたってこの問題は解決しないぜ、という話なわけですね。

「マクロな問題解決に対する共有基盤」ができれば、「ミクロなこと」で何か嫌だと思うことがあったらすぐに「異議申し立て」をかなり強い言葉でやってもOKになるというか、お互い

「あ、こういうの嫌だったんだね。ごめん気をつけます」

で済むようになっていくはずなんで、「それ」をいかに目指していくか・・・ということを、私のコンサル業のクライアント企業の話とか、上記記事で書いた台湾のオードリー・タンの話とかをベースに考えていく記事です。

単に「コインを裏返す」ような単純な話で解決する問題じゃないので結構長くなると思いますが、まあこの問題に興味がある人ってだいたい相当なインテリなんで、1万字〜2万字ぐらい簡単に読んでしまうだろうと思うので端折らずに意を尽くして書きます。

「有料記事」の体裁になっていますが、「有料部分」はほぼ別記事になっていて無料部分だけで十分成立するように作ってあるので、気にせず無料部分だけ読んでくれたらと思います。月三回はこの体裁の記事を書くノルマが自分にはあって、それと連動するようにしないと仕事量的にちゃんと意を尽くして「長文」を書く時間が取れないからそうしているのだ・・・という理解をしていただければと。この「課題」に対する私の考えや提案を書く部分はすべて無料部分に入れてあります。

(とはいえ結構長いので、時間がない人用に「連続ツイート」の形で概略を読めるものも用意しました。)

今回記事のまとめ的な連続ツイート↓(クリックするとツリー形式で読めます)

また、ファインダーズ記事への批判を送ってきてくださったゲイ当事者の方との対話ツリーはこちら↓(今回の記事へのある種典型的な批判者側の論点と私の返答・・・という意味でのまとめとなっています。クリックしたら上側に批判のツイートがあり、ソレに対する返答と対話が下側に並ぶようになっています)

では以下本文をお読みいただければと思います。

1●あるクライアント企業のパワハラ役員を辞めさせた話

まず、呉座勇一氏の話とも台湾の話とも一度離れて、私のコンサルティングの仕事で関わっている中小企業の話をしたいんですが。

中小企業といってもいわゆる家族事業って感じじゃなくて、「ある地方都市を代表する中堅企業」ぐらいの規模感ではあります。

その会社で、ある古参役員の仕事のやり方がパワハラ的だ・・・というので、その人を辞めさせたことがあったんですよ。

でも、単に「糾弾して追放した」って感じじゃなくて、少し時間をかけて丁寧にやる事で凄いスムーズに移行が進んだんですよね。

単に一発レッドカードでアウト・・・にするんじゃなくて色んな機会に警告を発して、変わらないなら退職してもらう・・・という話だったのはもちろんのことなんですが。

大事なのは

そういう「古い仕事のやり方」が持っている”機能”があった事をちゃんと認めて、尊重する姿勢は見せつつも、時代の変化ゆえに別の形を模索していかないといけないんだというメッセージは明確に伝えていく

ってことなんですよね。

これは、

「正義」をぼやかすというよりも、「相手側が持っている正義」というのも存在することを同時に認める。その上での解決策を考えていく。

ということなんですよ。オードリー・タンに関する記事で書いた「メタ正義感覚」というやつですね。

だからその古い役員が、パワハラ的な態度を持ちつつも担っていた技能承継的な機能とか、仕事に対する真剣さの共有とか、そういうのは、「責任を持って別の現代的なやり方でやっていきます」という「継承宣言」みたいなのが大事なんですよ。

単に自分たちが「絶対善、相手が絶対悪」という態度ではこの「継承感」が生まれない。「相手側の正義が果たしていた役割」は責任持って自分たちが「新しい考え方」でちゃんと代替していきますよ・・・というコミュニケーションを取ることで、「それなら仕方がない。老兵は去るのみだな」という形に持っていける。

その上で、徐々に毎年の人事変更の時に権限を削っていって、最後は一年間ぐらいの移行期間を経て次の株主総会で退職していただくということで・・・みたいな感じで、横から経緯を見ている私から見てもちょっと歯がゆいぐらい気を使って「変化」させていった。

なぜかというと、やはり「古参社員」にはそれを慕っている社員たちもいるし、考え方を共有している人たちもいるわけだから、単に「否定」していくだけだと大げさでなく「会社全体が2つの派閥に割れて争いはじめ」たりするんですよね。(この”会社”を今の”社会全体”に広げて連想してみるとイメージが凄くわかると思います)

で、場合によっては当人にそういう気はなくても「その人派の社員」たちが持ち上げて、担当顧客をゴッソリ持って独立してしまったりすることもある。(これは社会全体サイズで考えると”トランプ現象”みたいなものですね)

正直言って、ここまでの配慮が必要なのは地方都市だからなわけで、大都会になればなるほどもう少しシンプルな動きでも大丈夫だと思うんですが(もっと田舎のムラになればなるほどさらなる配慮が必要かもしれない)。

ともあれ、こういう風にすることで、「派閥争い」にならずに、「2つの文化」がちゃんと合流する形で変化していける。

そんな迂遠なことしてたら競争に負けちゃうんじゃないの?って思うかもしれないけど、その会社は結構「打ち手」のレベルではアグレッシブにどんどん色んなことを取り入れている会社なんですよ。

私の意見としては、特に日本では

「打ち手を大胆にするほど人事はとにかく細心の配慮をする必要がある」

と思っています。(この記事で書いたピーター・ティールも同じこと言ってたので、シリコンバレーでも世界中でもどこでも本質は同じだと思いますが)

「人事」の部分でちゃんと配慮する・・・みたいな事ってちょっと古臭い感じがするから、「もうそんな時代じゃねえぜ!」とタフぶってそこでザツなことをやる結果、スローガンは喧しいけど実際は常に内輪で常にバラバラに細かい争いごとをしていて、何も時代の変化に対して挑戦的な打ち手を打てていない企業のなんと多いことか。(”日本国全体”を見ると残念ながらちょっとそうなってしまっているかも)

その会社は毎年ちゃんと規模的にも成長しているし、女性の活用も進んでいるし、有給休暇だとか育休だとかワークライフバランスをマトモにするとか、そういう「今の時代的な理想」をちゃんと実現できているし、この10年ちょっとで150万円ぐらい平均給与を引き上げることもできた。

これらは、

「”普通の人を一緒に連れて行く”事を丁寧にやる」

ことによって実現するんですよね。

単にパワハラするタイプの人だとか、女性に対して偏見を持っている人だとかを全力で糾弾しまくって、一発レッドカードで排除すれば実現する・・・というわけではない。

「相手側の正義」「相手側の事情」への理解と敬意を示しながら、しかし断固とした姿勢を持って「時代の変化への対応を求める」ことはやっていく・・・みたいなことが必要なんですよね。

もちろん、大都会のほんの一部の先進的なグループだけにおいて、そこ単体で「理想郷」を作るなら、一発レッドカード型で排除しまくることで手軽に実現することもあるでしょう。

しかし、同じ人間社会に生きている他人を「完全に排除」することなどできないわけですから、強権で排除した存在は、その「恵まれたほんの一部のインナーサークル」の外側では同じ社会の中で滞留して、恨みをためて「絶対にその逆をやってやる」ぐらいの気持ちで吹き上がってくるのは、分断されたアメリカの現状や、人類全体で見た時の「強権的な中国政府とむしろそれを支持する新興国が増え続ける現象」を見れば明らかなはずです。

だからこそ「お互いの正義」を認めて「同じ場所に感情をつなぎとめておきながら」変化していくことが重要で。

「多くの普通の人」を一緒に連れていきさえすれば、その時はじめて「右にしろ左にしろありえない極論」で吹き上がる人だってはじめてちゃんと抑止できるんですよ。

そして「日常レベル」の、たとえば「女性蔑視発言」とかをする人を、『大都会のほんの一部の特権的インナーサークル』以外の場所でもちゃんと「抑止」したいなら、津々浦々までその「抑止力」を押し広げていくために「右でも左でもない普通の人をいかに巻き込めるか」が最重要課題なんですね。

そういう「基盤」を作っていかないと、たとえば呉座先生一人の問題でこれだけ日本中の人文系アカデミアが大騒動・・・みたいなことを毎回やってたら日常レベルで津々浦々のアカデミアにおけるジェンダー平等とか夢のまた夢ですよね。

2●「呉座勇一先生サイド」の「正義」と「単なる女性蔑視発言」を分けて考えるべき

で、一つめの話題の「呉座勇一先生」の話題に戻ってきたいんですが。

今、呉座先生の「過去の発言」が掘り返されて、ほら、こんな女性蔑視発言を沢山しているぞ・・・みたいな事が糾弾されていっているんですが。

正直言ってその「女性蔑視発言」の部分は、「なんでそんな事言うかね・・・」と僕ですら引いてしまうモノも結構含まれていて、それをちゃんと「ダメなものはダメ」って言っていく意味はあると思います。今回の件ではご本人も謝罪してますしね。

一方で、色々な過去発言を遡っていくと、例えば例の私立医学部入試の男性に有利な傾斜配分問題について、そういうのを単なる男女差別的な課題として捉えるんじゃなくて、

「そうまでしなくちゃいけない医者の過重労働で支えられている今の日本の医療のクオリティを、女性差別をしないでも実現できるにはどうすればいいか?」

という方向に持っていくべきだ・・・みたいな傾向の「いらだち」については私は凄い理解できる気持ちになりました。

大事なのは、さっきの私のクライアント企業での話のように、たとえば「パワハラ役員」がいた時に、

・パワハラ部分をちゃんと糾弾する

・そのパワハラしてまで維持されていた”何か”をちゃんと理解し尊重し別の形で自分たちこそが「新しいやり方」で継承していくのだという意思を示す

この「両方」が行われないで、「単に無意味に抑圧的な許されざる悪」扱いしかしないでいると、ちゃんと「普通の人」を一緒に連れていく形で社会を変化させていくことができないのだ・・・ってことなんですよね。

その「後者」がなされないままに攻撃的な糾弾だけが暴走すると、そういう「新しい考え方」への苛立ちが、「普通の人」にまで広がって共有されてしまって手がつけられなくなる。

逆に「後者」の部分での敬意がちゃんと払われていて「継承感」が醸成されているなら、「糾弾」が相当に攻撃的な感じになっていっても「普通の人」がついてくる情勢を維持できるでしょう。

呉座勇一さんはベストセラーもある「応仁の乱」の研究者なんですが、応仁の乱って日本の歴史の中で「最低限の社会の共有規範」ごと全部吹き飛んでしまって、その後百年以上に渡って戦乱の時代があり、熱狂の暴走が最終的には隣国への侵略に繋がったりするところまで行ってやっと収まった時代でもあるわけですよね。

また、一揆についての実証主義的研究もあるそうで、どちらの場合でも

「社会の現状への異議申し立てのエネルギーが、単に誰のためにもならない”万人の万人に対する闘争”的な混乱状態になるのではなく着実に社会の改善に向かうには、どういう部分で”立場の違う人への理解”をギリギリつなぎとめておく必要があるのか」

という問題意識や洞察が非常にある人なのだと思います。

そういう問題意識が、現状の日本では「ミソジニー(女性蔑視)」的な方向で噴出しやすい状況にある。呉座氏の周りで一緒になってミソジニー的な発言をしている人が「現状では許容」されているのも、そこの部分での「大義」が「新しい考え方」をするサイドの人に継承されていないからなんですよ。

昨今の「古い社会のあり方(アンシャンレジーム)」を「絶対悪」とし、「自分たち」が「絶対善」とする形での糾弾の暴走が、「あと一歩」踏み込むべき課題がここにあるはずなんですよね。

単なる「個人」の問題じゃなく「あたらしいより良い”公”」を目指す運動なのだ・・・と「多くの普通の人」に信じてもらうための意思が必要なのだというか。

そこでちゃんと「改革を迫る側」が、単に無責任な批判をしているのではなく、

「古い社会が持っていた機能」を、「自分たちなりのやり方で継承していくのだ」という意思さえしっかり持っていると信じさせることができた

なら、「女性研究者に意地悪な事を言っている男の集まり」がこれほど支持・容認されて温存されることもなくなるでしょうし、というかそもそも呉座氏をはじめとしてその中心人物たちご本人ですら、「そこさえわかってくれるなら」的にそういう行為をし続ける意味が消滅するはず。

3●「新しい社会の運営の仕方」を目指すということは、「古い社会のやり方」が持っていた「機能」をちゃんと自らの責任で「新しいやり方で代理に果たす」意思が必要になるということ

この件で、色んな人のツイートやら見ていると、

フェミニズムは、これから社会のあらゆる部分を塗り替えていかねばならない。なぜなら今の社会の構造は、すべてが家父長制の維持のために作り込まれているからだ

みたいなことを言っている人がいて、なんというか、遠大な目標だなあと思うと同時に、それが本当に「みんなのため」の行為であるなら、結構「普通の人」を引き連れていくことも可能になりえるんじゃないかと思ったりしました。本当にそれに伴う責任まで果たす気があるなら私も応援したいぐらいです。(こういうことを言うと、”どうせ女は自分のことしか考えないイキモノだから無理だよ”って言ってくる”女性蔑視”の男が沢山いるので、ぜひそうじゃないってことを証明してほしいところです)

ただそれが単にフェミニズムサイドからの要求だけでなく、「男女LGBTその他含めた本当にみんなのため」であるためには、「過去の社会構造」が持っていた「事情」はちゃんと全部理解して、「自分たちのやり方で解決する」という気概も必要になってくるはずですよね。

「男性がその特権と引き換えに行っていた献身みたいなもので支えられていた社会の機能」

みたいなものは、

「これからは自分たちがリードする以上、自分たちのやり方で実現する」っていうことを真剣に考える必要が出てくる

はず。

こういう時に、

女性が「生きづらさ」から降りるんだから、男も「生きづらさ」から降りればいいじゃん

みたいな話になるのが最近は「ちょっとはマシな対話の可能性」なんじゃないか・・・って思われてるところがあるんですが、なんかその世界観自体が、凄いすれ違いを感じるんですよね。

なんかそれって、「生きづらさをもたらす抑圧」っていうのは「何の機能もなく無意味に」存在しているものだから、それをみんなが辞めさえすれば社会は良くなる・・・という世界観ですよね。

でもそうすると「一部の人が生きづらさを抱えても貢献することで維持していた社会の中の機能」は誰が担うことになるの?って話がそのまま放置されるんで、結局最後まで「みんなのための奮闘」をし続けるタイプの人が搾取され続けることになるわけですよ。

そうじゃなくて

「生きづらさを抱えてまで維持されていた社会の縁の下の力持ち的な機能」を、いかに「生きづらさ」を誰かに押し付ける事なく実現できるか

を考えないといけないはずなんですよ。それは誰か「ワルモノ」を糾弾して終わりじゃなくて、全体を見て大きく構造ごと変えていくような考え方が必要になる。

さっきの「私立の医学部の入試」の話を、単に女性蔑視の問題にするんじゃなくて、どうやったら「女性には担えないような無理」をさせずに「日本レベルのクオリティを田舎でも享受できる」システムを作れるのかを考えなくてはいけない・・・っていう方向に「社会の意思」を向けていかないと。

もちろん「隠れた献身が見逃されていた」世界というのは男の側だけにあるのではなくて、「女性側の隠れた献身によって支えられてきた」部分も当然あるし、それを今後どうしていくべきなのか・・・は当然考えるべきですよね?

でもそれだって、「私は黙らされないぞ!」というわけでその「献身」を吐き出しただけで終われば、結局それは”別の誰かが”シワ寄せされてやらなきゃいけなくなるだけで終わるわけなんですよね。

それが単に「別の弱者へのシワ寄せ」に終わらないためには、社会全体で見て役割分担を見直していって、どこにも悲劇的なシワ寄せが行かないように調整する物凄く難しい作業が必要になってくるわけですけど・・・

たとえば「家事の分担」みたいな単純に「パーソナル」なレベルのことに見える話でも、日本企業の労働時間の問題とかアレコレとにかく色んな要素と絡まり合っているので、色んな立場の人と協力しあって変えていくことが必要になる。

どこの会社も9時5時に終わればいいけど、シリコンバレーや中国の企業が馬車馬のように働いて競争を仕掛けてくる中で、一応は先進国水準の繁栄を維持する事とワークライフバランスをどうやったら両立できるのか・・・。

一人が全部背負って考える必要はないしそんなことは無理だけど、完全に「純粋な被害者」という立場を全員が主張しはじめてまとまるものでもない。

社会全体で育児をサポートしたいから、できる限りの配慮はしたいけど、それが「あまりにも当然」という態度で来られるとシワ寄せされる独身者の怒りも持って行き場がなくなります。

とりあえず諸外国の女性リーダーではかなりよく見られる「男が専業主”夫”あるいは労働負荷の少ない仕事のパートナー」タイプはもっと日本でも普及するべきだと思いますが、とにかく「制度」とか「経済」とか一個を動かせばなんとかなるような簡単な話ではない。「個人の努力」で自衛できる部分はある程度あるにしろ、それではやっぱり限界もある。

そのあたりの

「あらゆる絡まりあった利害調整」を細心の注意で解きほぐすことをやっていかないと、「ほんのちょっとした不具合の解消」すらできないのが人間社会

なんで、そこを無理やりやると本当に

「大都会のほんの一部の上澄みの部分だけで物凄いノーストレスな環境が実現するけどソレ以外はどんどんシワ寄せされて苦しくなる」

みたいになるんですよね。(日本の事情を読み取らずにムチャを言うための旗印として利用される欧米における”先進的な理想像”ってのがかなりこういう事例↑が多いので注意が必要なんですよね)

でも、今の多くのマイノリティ擁護運動というのは、

「自分たちは抑圧されてきた弱者なのだから、なんでそんなことまで考えなくちゃいけないの?」

ってなってるじゃないですか。

まあ、本当に抑圧されてる当事者が、今一番ヒドイ状況を脱出していく・・・ならそういうのでもとりあえずはいいけど、そういう運動全体を率いるリーダーとかは、その運動が一歩成果をあげるたびに「より大きな社会的責任」を引き受けるようになっていってもらわないといけないはずですよね。

で、結局、「前時代的な抑圧」に見えるものの大半は、

「ある程度恵まれた環境に育った都会の個人主義者が、”自分だけの事しか考えない”ようにするのを抑止するためにある」

といっていいぐらいなんですよね。

都会の恵まれた個人主義者が「田舎」で暮らすコミュニティを蔑視したり、知的労働で高給を得る層が「現業」レベルの仕事を支えてくれている層を蔑視したり・・・というのは「ほうっておくとそうなっちゃう」わけで、ギリギリ土俵際で「同じ国を共有しているのだ」的な幻想で縛っておかないと、どんどん「恵まれた人が自分のことだけ考えて生きる」社会になっていってしまう。

「新しい価値観に置いていかれたと感じる人」を同じところにちゃんとつなぎとめて、共有した文脈を維持した状態で「具体的な制度改革」を通していく・・・みたいなことを丁寧にやっていく

事をしないと、

「新しい価値観」は「ほんの一部の都会の上澄み的に恵まれた階層」以外のところに浸透せずに終わってしまう

ので、社会はどんどん分断されていきますし、結果として

実際に「優しくない」環境で生きる人の数は増えてしまう

んですよね。

4●「自分がリードする」ということは、「自己の正しさの証明」でなく「その制度への”納得”を取り付ける難しさ」と向き合う必要があるということ

上記の記事で書いたけど、私は中学生ぐらいまで本当に日本語の「敬語」の存在すら許せないラディカルな個人主義者だったんですけど、高校の時に全国大会に毎年出るような部活動の中心人物になって、「バカバカしい(ように見える)風習」をバンバン廃止していったら、その部活が跡形もなく衰退してしまった事があって、かなり反省したんですよね。

その後、学卒で外資系コンサルティング企業に入ったんですけど、こういう感じで「わかりやすい理屈」だけで斬りまくっていると、社会がどんどん「全く別の2つの世界」に分断されていっちゃうなと思って(実際アメリカはそうなってしまってますよね)・・・いかに「2つの世界」を一つにつなぎとめて置きながら改革をしていけばいいのか?を考えに考えたあげく、色々と肉体労働やらホストクラブやカルト宗教団体への潜入やら、色んな社会の「現場」レベルへの潜入体験を経てたどり着いたのが今のしごとのスタイルだったりするわけなので。

で、「批判」する時は「自分たちの正しさ」を証明するだけでいいけど、「実際に社会をリードする」事になったら「正しければ納得してもらえるわけじゃない」わけじゃないですか。

「リードする側にまわる」ということは、「正しい事を言えばいい」んじゃなくて「納得して従ってもらう」ところまで「自分の責任」だと考える必要があるってことなんですよね。

で、「納得してもらう」ためには「正しさ」だけじゃダメで、ある種の「象徴的」なレベルでちゃんと痛み分け・・・みたいな構造に持っていくことが大事で

日本社会の「現場」レベルで働いてみると、他の国ではスラム街みたいになっててもオカシクないところでもぎりぎりで保たれている遵法意識とか仕事に対する責任感とかあるわけですけど。

そういうのって、もう最近ではかなり風前の灯火みたいになってしまっている義理の連鎖が一応繋がってるから維持されてるんですよね。

そういう「保守層が重視する社会の連帯」っていうのは、都会の個人主義者が想像もできないぐらい深いところで根を張っているから「一応同じ社会を生きている」という幻想を持ってもらえているわけで。

共産主義革命がそういうのを徹底的に引きちぎると、移行期にかなり凄惨な身内の殺し合いみたいな流血が起きるのは、「万人の万人に対する闘争」を抑止するための「本能的な義理の連鎖」的なものがいかに人間社会を守っているか・・・ということの証拠だと思います。

そういう「幻想の義理の連鎖」がなくなってしまえば、そもそも税金を払ってもらうとか、法律を守ってもらうとか、幹線道路を通る車を勝手に止めて地元のボスみたいな人が山賊みたいに勝手に通行料を取りはじめたりしないとか、「そのレベルのこと」すら維持するのが難しくなっていくわけですよ。

単に法律を書いたら勝手に実行されるんじゃなくて、どんな文明国でもその「本能的な義理の共有構造」をいかに維持できるか・・・がとにかく「実際にリーダーの側にまわってみればわかる」大事なことなんですよね。

5●オードリー・タンの「知恵」のコアは、「台湾の活動家」にも理解されずにひっそりと機能している

で、この記事↑に対する批判の話に繋がるんですけど。

この記事↑への批判として、台湾の事情をちゃんと反映してない・・・っていう批判があるみたいなんですね。

台湾の同性婚も、ナアナアの平和的解決というよりは、かなり激しい社会運動の戦いの結果勝ち取られたものなのだ・・・という話は、確かにあるんだと思うんですよ。

記事を書いた時点ではそういう認識が明らかに弱かったし、そういう「非妥協的な活動家による貢献」を無視して「黙れ」と言っている内容なのだと受け取られたんだとすればそれは記事の書き方として反省するべき点だったと思っています。

ただ、そういう「台湾の社会活動家とそれを応援する日本人」の色々な人の反論や関連記事を読んでいて思ったんですが、「活動家サイド」の人はオードリー・タンとその周辺がやった「ファインプレー的な配慮」のことをほとんど意識してないんだなってことなんですよね。

上記記事で書いたように、同性婚は最初は一度否決されているんですが、

中国語の「婚姻」の「婚」はパーソナルなものであり、「姻」は一族同士が結びつくという意味がある

ので、だからこそ

「婚ではあるが姻ではない」という別立ての制度(結婚不結姻)

にすることで保守派も受け入れやすい形にした・・・ことで可決されたらしい。

それって要するに単なる「パートナーシップ制度」ってことじゃないの?ってリベラル派は思っちゃうんですが、

これは「保守派の世界観で彼ら保守派が一番警戒している部分を侵す存在ではない」ということを「保守派の世界観の上で理解できる言葉と用法」で「保守派の文脈に乗っかる形で」展開したところがメチャクチャ魔術的に凄い配慮

だなと思うわけです。

一方で、たとえば同性婚についてリベラル派が「世界中で大絶賛!」と大騒ぎをしていたニュージーランド議員の演説が(愛する二人が一緒になるだけで保守派のアンタには全然関係ないのです・・という演説)ありましたけど、私は根がリベラルっぽい人間だからたしかに感動したけど、「この言い方」が保守派にとって一番キライで心底怒りと反感を掻き立てるものなのだ・・・ということをもう少し理解する相互理解のセンスがあってもいいんじゃないかと思いました。

それに比べると「結婚不結姻」の発想って「物凄いファインプレー」的にエレガントな知恵だな・・・と私は思ったんですが、でも今回この記事への批判者のコメントとか関連記事とかを読んでいて面白かったのは、この「結婚不結姻」の話はほとんど意識されていなくて

自分たち活動家がとにかく妥協せずに全力で主張していった結果実現したのだ!

的に思われてるんだな・・・っていうのは一つの発見だったんですよね。

逆に言うとオードリー・タンやその周辺の人たちの知恵は、それぐらい「巧妙」だったと言えるかもしれない。

なんせ、この「結婚不結姻」って、冷静に欧米文明の延長として原理主義的に考えると、結構危ない差別主義だという理屈付けもできるじゃないですか。

中華文明において重要な「一族」という概念にノイズを入れたくない・・・という保守派の本能的警戒心を避けるために、その「埒外」に別立ての制度を作った・・・わけですから、

ある意味で

「LGBTは生産性がない」

って言って大問題になった日本の政治家の発言と変わらない部分もある(と言えなくもない)。

それぐらいアクロバティックな論理を使って「保守派側の納得」を取り付ける知恵があったわけですけど、でも私の記事に反発している活動家の人たちの発言や関連記事を読んでいると、

この「隠れたファインプレー」は全然理解されてない

んですよね。そうじゃなくて自分たちが徹底的に非妥協的に糾弾し続けたから実現したのだ・・・と思っている。

なんか、それはそれで良いことなのかも?と思わなくもなくて、非妥協的に活動家型に糾弾するグループが一方ではいて、それと「古い社会」との間を取り持つ「2つの世界をつなぐ深い知恵」を持ったタイプの人が別にちゃんと分厚くいて、それぞれの役割を果たした事で転換したのだ・・・というのはとても理想的な連携プレーなのかもしれない。

大事なのは、日本においてはこの「保守派との間を取り持つ知恵」を持った存在が今の社会の中で壊滅的になってしまっているので、そこをなんとかしたいよね・・・という話なんですよね。

特に、「結婚不結姻」が中華文明において重要な「一族」という概念へのノイズを排除する事が成功の鍵だったように、日本の場合は「天皇制」にまつわる諸事情へのノイズを排除することが成功の鍵だと私は考えています。

これって「抽象概念における原理主義」で考えると果てしなく許されざる妥協に見えるんですけど(笑)、でも台湾の活動家やそのフォロワーの人たちが「勝利感」を特に毀損されずに盛り上がっているのを見ると、「本当に見事な知恵」は「隠れて意識されない」レベルでエレガントに実現するものなのだ・・・ってことなのかもしれません。

ただ、結婚不結姻という概念は「見た感じ単なる小さなこだわり」であるようでいて、「欧米文明と中華文明」を徹底的に対等な価値を持つ存在として見て、その両者を調和させる物凄く深い知恵が宿っていると感じます。

私が書いた記事、前半部分で結構「活動家」に攻撃的なトーンで書いたのでそれが嫌で後半を読まずに批判している人も結構いた感じがするんですが、この部分↑の知恵の話については、私のスタンスに批判的な人でも一応記憶にとどめておいてくれたらと思います。

日本においてもそういう「知恵」こそが今求められているのであって、そういう「知恵」によって「共有基盤」を形成する作業さえちゃんとできれば、「糾弾」や「異議申し立て」自体は結構強い調子でやってもそれほど紛糾せず問題なく社会は前進させていけるようになるはずだと思います。

6●活動家はいいが知識人が問題なのかも?

この記事に対する反論で、もう一つ印象的だったのは、

「日本における”活動家”でこんなに非妥協的に保守派を糾弾しているような人を見たことがない。実際に制度を変更するとなれば自民党とでも組むのが普通だ」

みたいな反論が結構あったんですよね。それは私の体感としても少し理解できる感じがしました。

問題なのはそれを「現状の日本を否定する」論陣を張るための「ネタ」として消費してしまう知識人階層が日本の場合はやたら多くいるところが問題を余計に難しくしているのかも?

日本における福祉活動家も本当にこのレベルで「イデオロギーを超越」していて尊敬できる人が結構いるなと思うんですが、それを援用して「イデオロギー闘争のネタ」にする層が問題を起こしているのかもしれない。

台湾においては確かに「活動家」は非妥協的だったけど、それを「知識人」階層が引き取った時に、「結婚不結姻」的なファインプレー的な調整をする”オトナ”な役割を果たしていた。

今の日本に足りないのは「そういう部分」かも?

台湾の事例を見ても、そしてちょっと似ているんですが、韓国の事例を見ていても思うんですが、両国が今の日本と比べても一部では「先進的」に見えるチャレンジができている部分があるのは、

「ほんの一世代前」ぐらいまで独裁国家だったんで、やっぱり「社会の共同体の密度感」が日本とは全然違うから

だなって思うんですよね。

結果として、「日常生活レベル」において「他人にどれだけ踏み込んであれこれ言うか」みたいなレベルが日本人とは全然違うじゃないですか。

ある意味で、「ついこないだまで独裁政権」だったがゆえの「本能的な社会の共同体的な繋がり」が強いからこそ、「冒険」もできる・・・みたいな構造があるはずなんですよね。

日本で最近やたら右翼的な言説が一部で流行っているのは、「狂乱の80年代90年代とかを超えて延々と個人主義が社会の隅々まで浸透してきた」結果、なんとかそういう右翼的言説で埋め合わせておく必要が出てきているからだと私は考えていて(欧州&アメリカだって似たようなところがあるはずで)、だからそう簡単に「ダメですよ」って言ったら消えるもんじゃないはずなんですね。

私はさっき書いた若い頃の部活動の体験もそうだし、今のコンサル的な仕事をやっていくなかでも、「いかに普通の人を一緒につれていくか」っていう事が集団を変革していく上で物凄く重要かをヒシヒシと感じているので。

バンバン「新しい価値観に適応できない人間を切り捨てまくる」と、アメリカみたいにほんの一部のグーグル的な存在が物凄く高収益かつ色々な「配慮ができる」一方で、スラム街はもう本当に希望がないスラム街みたいになってしまったりするわけなんですよね。

で、「強者・弱者」みたいな話で言うと、「右翼的な考え方」によって抑圧されているマイノリティの個人はたしかに弱者だと思うけど、一方で「グローバルな流行」によって紐帯が引きちぎられる寸前になっている”日本社会”のがわだって「弱者」的な要素はあるわけなんですよ。

「何の悩みもない単なる抑圧者としてのマジョリティ」っていうのがそもそも神話にすぎなくて、「ソレ」に全部責任を押し付けて糾弾していればいい・・・という話自体がサステナブルじゃないんですよ。

どっちサイドも「自分たちこそが弱者だ」って言って「だからお前たちが一方的にこっちに配慮しろ」っていう運動だけを展開している・・・という状況は本当に幸薄いですよね。

実際の「マイノリティ的な弱者」への保護を徹底するためにこそ、「日本社会の紐帯」みたいなものに対する配慮は同じぐらい必要なはずなんですよね。

そのためには、上記の「オードリー・タン役」っていうのを担う存在が、もっと必要なはずですよね。

「活動家」の人は別に私に何言われようと「活動家」であり続けるでしょうけど、「知識人」タイプの人の中でもっとこういう「中庸の徳」をいかに実現するか・・・みたいなことを真剣に考える人が出てきてくれないかなと思ってるんですよね。

私自身が、そのあたりで「新しい調整役」としての言論活動をやっていきたい・・・とずっと思って、10年20年計画でコンサルの事例とかも積んできながらやっとある程度「聞いてもらえる」人が増えてきたかなと思っているんですが。

それでもやはり孤立無援感があるので、現状「右」の人でも「左」の人でもいいので、この「真ん中」の旗印をもっと育てていく活動を一緒にやってくれたらと思っています。それが結局「左の懸念事項」も「右の懸念事項」も両方本当の意味で解決する道に繋がっていくはずなので。

過去20年ぐらい「どんどん先進的な改革」を起こした国では「分断」がかなり深刻になってしまっているので、日本が『ウサギと亀の競争』的にあとから「普通の人を一緒に連れていく」スタイルで進歩する意味は物凄くあるはずなんですが。

その時には、単に

「社会の半分を置いてけぼりにすることで理想を実現している海外の事例」を持ってきて「日本の右派」を叩く・・・

というスタイルでは限界があるんですよ。そうじゃなくて

「どちら側の良い部分も悪い部分もフェアに全部テーブルの上にあげて、紋切り型でなく実地に考える」

ことをやっていかないとね。

そうやって「共有基盤」さえできて、マクロな問題で同じ目線で日本国が進んでいく方向について議論できる環境ができてくれば、「ミクロな問題」における異議申し立てに対してやたらバックラッシュされて紛糾することがはじめてなくなる情勢に持っていける。

今のままだと

「生きづらさを抱えているマイノリティ」も「グローバリズムの中でギリギリ紐帯を維持しようとあがいている日本社会」もどっちも見方を変えると「弱者」

であって

「弱者の自分たちに配慮してくれよおおお」と必死にどちらも言い合っている

ので、

相手側のちょっとした、ほんのちょっとした要求を飲むだけでも、自陣営側が決定的に大事にしたい部分まで崩壊させられてしまうのではないか?という恐怖心が渦巻いている

結果として、

「ミクロな問題」におけるほんの小さな異議申し立てとかですら強烈なバックラッシュの炎が燃え盛るのを止めることはできないでいる

んですね。

これは見方を変えれば、アメリカがトランプ派とソレ以外の「分断」に陥り、欧州も極右勢力が伸長し、そして人類社会全体で見れば「中国とそのフォロワーたち」という「挑戦者」を抱えることになった分断を、なんとか「同じ場所に繋ぎ止めておく」作業をギリギリの土俵際で行っているのが日本社会なので。

だから「ちょっとした改善提案」ですら通らないんですよね。

ちょっとした変化の提案ですら、その「諸外国ではとっくにバラバラになってしまったものを一箇所になんとかまとめているタガ」が弾け飛んでしまうのではないかという恐怖心ゆえに「うっせーだまってろ」的なバックラッシュを体験することになる。

「マクロ」の問題に対する共有基盤を作っていくことで、はじめて「ミクロな問題」でスムーズに「言いたいことを言い合える環境」というのはできるようになるんですよ。

まあこういうのは、10年〜20年単位の紆余曲折をへて「やっと聞いてくれる人がふえてきた」段階なので、私はこのまま「わきまえないぞ!」という精神でこの立場を押し立てて行こうと思っていますが、今ある右や左の紋切り型に満足できない思いを持っている方が、徐々に参加してきてくれることを願っています。

7●「若い頃の震災体験」がもたらす「社会階層を超える連帯」への渇望

この記事の無料部分はここまでです。台湾に関する記事への反論に対する私からのメッセージもここまでの部分に全部書きました。ご意見ご感想など、また聞かせていただければと思います。

以下の部分では、「若い頃の震災体験がもたらすもの」っていう話をしたいんですよ。

というのは、呉座勇一氏の話でネットを検索すると、御田寺圭(通称”白饅頭”)氏という人の話がやたら出てくるんですね。

「呉座勇一は謝罪ツイートもしたのに、まだ白饅頭とつるんだりしているのか、許せん!」

みたいな事を言う人までたくさんいて、なんかこう・・・どんな意見の存在でも「あいつとつるんでいること自体悪」みたいな扱いってどうなんだと思うわけですが。

で、最近バズっていた記事ではこの↑記事とかが典型的な、白饅頭氏のよく言っていること・・・みたいな話だと思うんですけどね。

確かに白饅頭氏がフェミニズムとか、そもそも「特定の女性個人」に対して攻撃的なことを言いまくる癖があるのがちょっとな、っていう気持ちは僕もあるんですが、上記記事を含めて「言っていることの全体像」の中には、リベラル派がちゃんと「受けて立つ」必要がある内容が結構あると自分は感じていてですね。

要するに「賛成」しなくてもいいし「批判」しても勿論いいけど、「その問題意識」は受け取って自分たちならではの方向性で解決の道筋を考えるべき「挑戦」をしてきていると思うわけで。

なんか彼はそういう方向で「特殊なこだわり」に全力を賭けて言論をしている人なんですが、私は彼の記事をどこかで初めて読んだ時に、

「この人って、1995年の神戸の震災(阪神大震災)の経験者なんじゃないかな」

ってほとんど何の根拠もなく思ったことが正解だったってことがあったんですよ。

一方で、似た感じで「アルテイシアさん」という女性のライターさんがいるんですが、私の書くものの愛読者の女性の中に同時にアルテイシアさんのファンが多くて、それで意識して読むようになったんですが、この人も特に根拠なく

「この人も阪神大震災の経験者なんじゃないかな」

って思ったらバッチリそうだった・・・ってことがあってですね。

この人は女性なので、白饅頭氏とは似ても似つかない方向の論調の人ですけど、単なる概念的なフェミニズムとは違う形で、「日常的な普通の人の心情の延長線上」に、”ジェンダー平等”的な欧米由来の人工的な概念を地続きに着地させようともがいている感じの人だと思っています。

もうひとり、もっと若い世代ですけど岸田奈美さんという人がいて↓、

このひとの記事も、読んだ時に「阪神大震災経験者じゃないか」って思ったらそうだった・・・って事があったんですよね。(たぶん物凄く小さい頃に被災してるので、思春期に体験した白饅頭・アルテイシア・倉本圭造世代とはまた違った影響のされ方をしていると思うんですが)

まだ他にもいた気がするんですがちょっと今思い出せないのでこのへんにしておきますが、とにかく個人的に「立場は違えどなんか凄い共通するもの」を感じているんですよ。

それって何なのかな・・・って思うと、要するに「普通に文明社会の内側だけで生活していたのでは接触しない本当のナマの人間社会」ってのを体験したってことなのかなと思うわけですね。

文明社会の中で生きていると、例えば「貧困層のルポをする」としたらその「文明社会の持っている文脈」の中でその「貧困層」と記号的に結びつくしかないところがあるんですが。

本当に「自分たちが住んでいる地区」だけで、ワンブロック全部丸焼けになったり高速道路が横倒しになったりする反面、また道路一歩向こうでは震災の晩にもう電気が回復してほとんど普通の生活ができている層がいたりする。

個人的には「家が沢山倒壊したとか近所がワンブロック焼け野原になった」事自体よりも、「大阪まで歩いていったら普通に学校も休みになってなかった」的な、「劇的な現象」と「あまりにも日常」が紙一重に同時に存在することのショック・・・が深い影響を持っている気がしているんですね。

「普段はいい人そうに見えていた人の本当にいやらしい部分」とか「感じ悪そうな人の意外に頼りになる部分」みたいなのも沢山見ることになったしね。

そういう「文明社会の裂け目」みたいなものにぶつかることで、「よくある話」だけでは満足できない飢えというか、「お題目」と「普通の人の生活心情」とをなんとか必死に繋ごうとする「かなり過剰な語り」のスタイルに繋がっているところがあるというか。

私は最初の本を出版した時に、あとがきで震災の思い出を書くと同時に「2011年の東日本大震災」の被災者の中から、特殊な文芸的才能を持った人が生まれるはずだ・・・みたいなことを書いていて。

あれから10年近くたってみて、たとえば「呪術廻戦」の芥見下々さんとかがたぶん19歳ごろに東北で被災しているはずなんですが、結構作品を読んでいて「震災の影響」みたいなのを感じる部分があります。(関西人が被災したのとは随分違う方向性の”覚醒”だなと思うんですけど 笑)

以下の有料部分では、震災の思い出話とかしながら、「阪神大震災経験者の書き手」のこの「過剰な語り」の要素ってどこから来るのか、とか、そういうムーブメントをつなげて行くことで、「抽象的な論理だけでぶつかり合うと味方になれるはずがない」グループ同士を繋いでいくことの重要性・・・みたいな話をします。

そして阪神大震災があった年にはじまった「エヴァ」が、「シン・エヴァ」で終結することで、その「裂け目」をまた別の形で閉じようとする動きが始まっているのだ、みたいな話もします。

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また、この連載の趣旨に興味を持たれた方は、コロナ以前に書いた本ではありますが、単なる極論同士の罵り合いに陥らず、「みんなで豊かになる」という大目標に向かって適切な社会運営・経済運営を行っていくにはどういうことを考える必要があるのか?という視点から書いた、「みんなで豊かになる社会はどうすれば実現するのか?」をお読みいただければと思います(Kindleアンリミテッド登録者は無料で読めます)。「経営コンサルタント」的な視点と、「思想家」的な大きな捉え返しを往復することで、無内容な「日本ダメ」VS「日本スゴイ」論的な罵り合いを超えるあたらしい視点を提示する本となっています。

また、上記著書に加えて「幻の新刊」も公開されました。こっちは結構「ハウツー」的にリアルな話が多い構成になっています。まずは概要的説明のページだけでも読んでいってください。

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「呉座先生事件」に思うことと、「分断の時代を真剣に超えるオードリー・タンの知恵」が身近な活動家にも理解されていない話について

倉本圭造

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倉本圭造
原生林のような豊かで生命力に満ちた経済の実現を目指す、経営コンサルタント・経済思想家。著書に『みんなで豊かになる社会はどうすれば実現するのか?』『日本がアメリカに勝つ方法』『21世紀の薩長同盟を結べ』。