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Vol.35 回顧(PUFFY「これが私の生きる道」)

この話についてnoteを書き始めた頃から書こうかな書きたいなとは思っていました
ただ内容が生々しいから引かれるかなと思ってみたり…

でも今はみなさんにこの話をお届けすることで
「こういうことって私だけじゃないんだ」
「子供の頃からそんな感じでずっと悩んでいました」
「もう1歩踏み出そうかな…」
そんな人の参考になればいいと思って…
そう思うと伝えなくてはという気持ちになって…
1人でもそう思ってくださるのなら
私はこの話をした意味が大いにあると思っています

今回は「私が子供の頃から持っていた発達障害の種のお話」をしたいと思います

「他人とは変わっている子」

私は昔から「他人とは変わっている子」というのは自覚していましたし、母親からも言われて育ってきました
その後高校を卒業してからリゾートホテルの料飲部門(レストランの接客)に配属されました
テーブルの位置を覚えられない、ぼーっとしていることが多々ある、床掃除の拭き残しや屑残りの多さ…
他には備品破損の多さ(これについては未診断ですがDCDだと個人的には疑っています)
結局仕事は続かず1年ほどで退職しました

今は介護の仕事をしていて、昨年の12月でちょうど10年経ちました
不器用さは目立つのは否めないのですが
周りの理解が少しあるだけでも違うと感じています(ちなみに障害は職場にはオープンにしていますが、就労はクローズです)

そんな中ちょうど3年前の今頃職場の人間関係がギクシャクしていた時期がありました
「もしかして、私双極性障害?」と考えるようになって…
「いやもしかして発達障害?」とも考えるようになって
受診して心理検査などを受けた結果、ADHDとASDの診断に至りました

きっかけは1枚の年賀状から

発達障害の診断には
子供の頃の資料(例えば通信簿や母子手帳など)が参考になるケースが多く
それを集めるのに苦労しました
ちなみに受診先の病院でもあれば望ましいと言われました
両親には「発達障害の診断を受けたいから…」と打ち明けることは出来なくて…

小学生低学年の頃私は特殊学級(今は呼び名が変わり特別支援学級といいます)で過ごしていました
そこでお世話になった先生からは今も年賀状が届きます…
ファイリングしていたものに電話番号が書いてあったから、思い切って子供の頃のこと聞いてみようと思い…
電話したら先生本人がお出になり
私のことはちゃんと覚えてくれていましたよ(さすがにいきなりの電話でしたからびっくりされていましたけど…)
色々昔の私のことを教えてもらいました

正義感が強い子ではあるが、学年が1つ上のキャラが強い子(ASDの尊大型タイプ)2人に挟まれていたため
その中では大人しめな(ASDの受動型タイプ)感じになっていたそうです

私が特殊学級に入ったのは先生側からすすめた訳ではなく、母親の強い希望からだったとのこと
それが中学年に入る頃特殊学級の担任が母親に「この子は普通学級でもやっていけます」とかなり説得し
普通学級に戻りつつも通級指導教室にも通っていた経緯があります(それは普通学級に戻るきっかけはなんとなく当時から覚えてはいました)

もしかしたらアスペルガーじゃない?

「あなたが通級指導教室に通っていた頃の先生があなたの地元の学校にまた戻ってきているから、いろいろ聞いてみたら?」と言われ…
そこからすぐ行動して、その先生ともお話することができました

成績は中の上だった
とにかく納得するまで泣いて動じない、本当に納得する理由じゃないと動かない子だったと
(下記リンクのような感じに近いですね)

昔からパソコンとか割と得意だったから、私は専門学校とかすすめたけれど
あなたのお母さんはそんなの無駄ですから高校を出たらさっさと就職させますの一点張りだったそうです
(実際私は専門学校に行くことを望んでいましたが猛烈な反対で結局高卒で就職しました)

「もしかしたら私はアスペルガーじゃないかなとは昔から思っていたんだ」
先生はそう話してくれました
(診断は医師しか出来ないだろと思ってる方もいらっしゃるかもしれませんが、思うことくらいなら別にいいのではと私は考えます)

時をこえて私が私に教えてくれたこと

どうせだったら、せっかくこの機会だから、もっと過去のこと知ろうと思い
通っていた幼稚園を訪れました
担任だった先生は退職なさっていたそうで、連絡をとってくださり後日お会いすることができました

換気のために開けていた窓をいきなりバンッと勢いよく壊れるかいわんばかりに閉めたり
水道の水栓パイプを上向きにして急に勢いよく水を出してみたり
急に何をしでかすか分からない子だったとのこと

「多分お兄さんとかお姉ちゃんの影響じゃないかなとは思うけど、みんなの前でよく流行り歌を披露していたよね」という話になりました
(ちなみに兄と私は10歳差です)

その話が出た時、幼稚園内のなにかの発表会で「これが私の生きる道」を歌った記憶がハッキリと浮かんできたのです

近ごろ私達は いい感じ
悪いわね ありがとね これからも よろしくね
もぎたての果実の いいところ
そういう事にしておけば これから先も イイ感じ

もしも誰かが 不安だったら
助けてあげられなくはない
うまくいっても ダメになっても
それがあなたの生きる道

もえてる私達は いい感じ
生きている あかしだね 世の中が すこし見えたね
もぎたての果実の いいところ
そういう事にしておきな 角度変えれば またイイ感じ

「近ごろ私達はイイ感じ」とか「助けてあげられなくはない」とか「角度変えればイイ感じ」とか
絶対その歌詞の意味が本当に本当にわかる日が来るし、本当に本当に大切に理解して一緒に育んでくれる人が現れるから
しょげないで生きていけというメッセージを
幼稚園の頃の私から今の私に時をこえて届けてくれたんだな〜と感じました
受け取るまでに20年以上かかりましたけどね(笑)

「これが私の生きてきた道」
今回は私の発達障害の種についてのお話でした

それではまた来週〜👋🏻

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