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選択される学校(1)〜不登校と学校〜

選択される学校(1)


昭和34年に京都の精神科医の高木隆郎先生らによって『「学校恐怖症」としての長欠児童の実態調査』が行われて以来、すでに60年以上、「学校恐怖症」「登校拒否」「不登校」と呼び方は変わっていますが、現在までも「学校に行けない、行きたくない子ども達」がいることは事実として何も変わっていません。

私が不登校の子ども達と関わり始めた今から30年くらい前は、「登校拒否」と言われていて、「不登校」という言葉は、まだ、あまり認知されていませんでした。ようやく、「登校拒否」から「不登校」へと変わりかけたところでした。


ところが、「学校に行けない、行きたくない」という現象は変わっていませんが、子ども達の状況は変わってきているのではないかと、私は思っています。そのことについて、お話したいと思います。


学校に行かない!という子どもは今も昔も一定の割合でいることは間違いありません。彼らははっきりと「学校に行くこと」を拒否しているという意味では、今でも「登校拒否」と呼んで良いのかもしれません。


「不登校」という言葉は「学校に行っていない」ということを表しているだけですが、文部省よりも法務省が先に、「登校拒否」から「不登校」へ呼び方を変更したと私は記憶しています。


それは1988年(昭和63年)法務省人権擁護局が行った 『不登校児の実態について―不登校児人権実態調査―』からでした。そこではっきりと法務省人権擁護局は

この調査では、何らかの心理的、環境的要因によって、登校しないか、登校したくともできない状態にある児童生徒を対象とした。このような状態は、一般的には、「登校拒否」と呼ばれているが、学校に行くことを「拒否」しているわけではなく、「行きたいのに行けない」あるいは、「行かなければならないと思っているのにいけない」という児童生徒もいることから、本調査では、「不登校児」と呼ぶことにした。

としています。

当時の文部省も「登校拒否」という言葉は使っていますが、実態は法務省と同じように考えていたと思います。

ただ、法務省はこの実態調査の報告書では、当時の文部省が「登校拒否」という言葉を使っているにもかかわらず、なぜ「不登校」としたのかは、法務省から依頼を受け調査を行った平井信義先生(当時、大妻女子大学)と法務省との考え方の差があったのではないかと、私は認識しています。

それは、平井先生は、「不登校」という言葉は調査報告書のタイトルには使われましたが、報告書ではほとんどが「登校拒否」とされています。これは、子どものことを研究されてきたことから、「登校拒否」の原因は親や、その子どもの内部にあると考えたのではないかと思うのです。

それに対して、法務省は原因を追究しているのではなく、不登校の子ども達の現状は、ただ深く悩んでいると考えたのではないかと思うのです。

特に、この調査でわかった「いじめ」の件数が、法務省が把握しているよりも明らかに多く、このまま「登校拒否」として捉えていると、子どもの人権侵害になるのではないか、と考えたとしてもおかしくありません。そのために、「不登校」という呼び方に変えたのだと私は考えています。


こうして、呼び方も変遷し、子ども達の置かれている環境も変わっていきました。

ところが、私の中では、もっと大きな変化が子ども達にはあるように思っています。


そのことについては、後日、お話ししたいと思います。



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