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【試し読み】旧約聖書 激動の歴史と思想の衝突を読む

 長谷川修一『旧約聖書――〈戦い〉の書物』の刊行を記念して「序」の一部を公開します。シリーズ「世界を読み解く一冊の本」7冊目です。シリーズについてはこちら↓

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 本書『旧約聖書――〈戦い〉の書物』は、2000年以上前に複数の著者によって書かれた旧約聖書が、いかに「一冊の書物」として成立していったのか、その成り立ちや内容、背景にある古代イスラエル史を概説することから始まります。

 基本をおさえたところで本書はさらに、旧約聖書のテクストが描く「歴史世界」と激動の古代イスラエル史を考古学・聖書学の知見に基づき対比させ、著者たちが自らのアイデンティティを懸けて繰り広げた思想史上の6つの“戦い” ――「イスラエル」誕生をめぐる〈戦い〉、神のアイデンティティをめぐる〈戦い〉、「真のイスラエル」をめぐる〈戦い〉、祭司の正統性をめぐる〈戦い〉、「神の言葉」をめぐる〈戦い〉、結婚をめぐる〈戦い〉――を鮮やかに読み解きます。

 これらの〈戦い〉とは武器を手に敵と戦う実戦を指すのではなく、むしろそうした武力行使を避けるため、旧約聖書の著者たちが「文字」のもつ信頼性を武器にテクスト上で繰り広げた、思想上の対決や葛藤を指します。
 本書をつうじて、旧約聖書の魅力とその源流に流れる「激動の歴史を逞しく生き抜いた人々の姿」(本書「結」より)にふれてみてください。


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文字の力

Calamus gladio fortior.

 ご存知、「ペンは剣よりも強し」を意味する慶應義塾のモットーである。この言葉は、一九世紀のイギリス人劇作家ブルワー・リットンによる戯曲『リシュリュー』の中で、フランスの宰相にして枢機卿でもあったリシュリューが放ったものである。リシュリュー枢機卿は一七世紀初頭にルイ一三世の宰相として活躍した実在の人物で、デュマ作『三銃士』にも登場する。
 慶應義塾大学の紋章には、交差したペンの図案と共にこの言葉が記されているため、コロナ流行前に入学した塾生であれば誰でも一度は目にしたことがあるはずである。ご存知ない方は、いま手にしておられるこの本の背をご覧になっていただきたい。そこにある慶應義塾大学出版会のロゴマークに刻まれているのがこの文句である。
 さて、作中においてこの言葉は、リシュリューが武器の代わりにペンを持ち、剣を持つ相手に果敢に戦いを挑む時に放った言葉ではもちろんない。もしそうだとしたらあまりに無謀である。また、軍事力を伴う強大な権力を持つ相手に、ジャーナリズムの力で立ち向かおうという意味でもない。
 この戯曲でリシュリューは、フランスにおける事実上最大の権力者として描かれている。そんな彼がこの言葉を言い放ったのは、部下たちが武力をもって自分を暗殺しようと企んでいることを知った時であった。彼はペンで署名さえすればいつでも彼らから武器を行使する権利を奪うことができたのである。聖職者であったリシュリューは武器を手にすることこそ許されてはいなかったが、権力者としての彼はそれよりも強い力を現実に発揮するペンを持っていたことになる。
 しかし、のちにこの言葉は、「言論の力は武力よりも大きい力で人々の心に訴える」という意味を帯びるようになり、ジャーナリズムが「ペン」=「言論の力」の代表として捉えられるようになった。新聞やテレビ番組等の報道をきっかけに世論が大きく動き、政治が、そして実際の社会が変わるということは今日珍しくない。こうした現象を、「言葉が世界を変えた」という意味で「ペンは剣よりも強し」という言葉で言い表すこともできるだろう。
 しかし、世界を変えてきた言葉は、ジャーナリズムのみによって紡ぎ出されてきたわけではない。ジャーナリズムがその報道によって世界を変革するよりもずっと前の時代から、文字として書かれた言葉は世界に働きかける力を持っていた。
 文字は情報を伝えるために誕生したものだが、情報は文字として書かれることによって変化しにくくなる。文字が誕生した背景に、取引を記録する目的があったと考えられているのはそのためである。
 古代のメソポタミアにおいて、初期の楔形文字で記されたのは商取引や結婚といった様々な契約に関する文書であった。口約束では、長い間に双方の記憶も薄れるし、それを利用して自分に都合の良い主張をする人間も出てこよう。身近な例では、買い物の領収書が挙げられる。記憶違いや悪用を防ぐため、粘土板に契約内容を記し、そこに契約者双方の印と複数の証人の印を捺すシステムが、古代のメソポタミアにおいてすでに用いられていた。今日の様々な契約書と同じ仕組みである。ただ、紙と異なり、乾いて堅くなった粘土板は長期保存が効く。火を受けても燃えるどころか、よりしっかりと固まるので、火を受けた後は地中でも残りやすくなる。だからこそ、何千年の時を経て、何十万枚もの粘土板が保存され、発掘等によって見つかってきたのである。
 このように、はるか古代から、文字で記された言葉には、単に誰かが口で発する言葉以上の信頼性が認められていたということになろう。

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図1 銅の債務免除についての粘土板文書(紀元前20~19世紀、メトロポリタン美術館蔵)
出典: Wikimedia Commons


 本書が紹介する旧約聖書も、文字で書かれている。そして旧約聖書は、より正確に言えば旧約聖書の筆者たちは、文字が持つこの力を利用して世界を、少なくとも自分たちの周囲の世界を変えようとしたのである。仮にそこに書かれた言葉が無力であったならば、旧約聖書は今日まで保存されてこなかったであろう。今日、日本においても書店や図書館で手軽に旧約聖書を手に取ることができる。こうした状況を見る限り、旧約聖書の文字の力は十分に発揮されてきたと言えよう。

聖書=平和の書?

 読者諸賢は「平和」という言葉を聞いて何をイメージするだろうか。白い鳩のイメージが平和のシンボルとして使われることがある。よく目にする平和の図案は、白い鳩が緑の枝葉をくわえて羽ばたいている場面を描いたものである。では、なぜ鳩が平和と結びつけられて描かれているのだろうか。
 旧約聖書の中の創世記にはノアの洪水物語といわれる物語が収められている。人間の悪が大地にはびこったため、神は、大地もろとも人間を滅ぼそうと、地上に未曾有の大洪水をもたらす。しかし、神の目に義とされたノアという人物は、来たるべき洪水のことを神から知らされ、それに備えて木造の方舟をつくるよう命じられる。世界中から集めた動物たちとともにノアと家族がこの方舟に乗ると、破滅的な規模の大雨が降り、大洪水が大地を襲う。地上は水でことごとく覆われ、ノアたちを乗せた方舟は漂流する。しかしやがて雨はやんで水が徐々に引いていき、方舟はアララト山の頂に漂着した。
 方舟に乗ったノアは、水が引いて陸地が現れたところがあるかどうかを確かめるため、鳩を放つ。鳩は一度目と二度目はそのまま方舟に舞い戻るだけであったが、三度目に放つと、口にオリーヴの若葉をくわえてノアの手に戻ったという。これを見たノアは、乾いた陸地が現れたと考えた。

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図2 白い鳩を放つノア、サン・マルコ大聖堂のモザイクから、ヴェネツィア、12~13世紀
出典: Wikimedia Commons


 一九四九年にパリで開催された国際平和擁護会議のために、芸術家パブロ・ピカソがこの場面を図案化して描いて以降、鳩が平和の象徴となったようである。愛煙家の読者諸賢の中には、タバコのピースのパッケージに描かれた若葉をくわえる鳩の姿をご存じの方もいよう。
 しかし、旧約聖書の洪水物語と、戦いがない状態としての平和とは、元来直接の関係を持っていない。洪水物語の中の鳩は平和の象徴というよりは希望の象徴ではないかと筆者は考えている。オリーヴの若葉をくわえて戻ってきた鳩が象徴するのは、巨大で破壊的な災害の後の明るい希望とでもいうべきものではないだろうか。
 仮に平和の象徴である鳩の図案が旧約聖書の物語に起源を持つものでなかったとしても、「旧約」を外した「聖書」と平和とはなんとなく親和性が高いと感じる読者諸賢も少なくなかろう。一般にキリスト教は「愛の宗教」と言われることが多い。新約聖書の中でイエスは何度か「愛」について語ったとされているからである。
 さらに別の理由もある。キリスト教の教義によれば、イエスは、旧約聖書中のイザヤ書で預言されていた「メシア(救世主)」とされる(「メシア思想」については後述)。イザヤ書には次のような一節がある(本書で用いる和訳は断りがないかぎりすべて聖書協会共同訳(二〇一八)からの引用である。訳文中、〔 〕は筆者による捕足を示す)。

その名は「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。その主権は増し、平和には終わりがない。(イザヤ書九章五〜六節)

 キリスト教でイエスのものとされる肩書の一つが「平和の君」であり、その「平和には終わりがない」とされる。このような表現で表されるイエスを信じるキリスト教に平和の宗教というイメージが醸成されても不思議ではない。
 しかし、歴史を繙けば、「キリスト教」と呼ばれるものが、特に政治権力と結びついて以降、度々暴力に関与してきたことは明らかであろう。十字軍などはまさにその例である。
 では、キリスト教の母胎となったとされるユダヤ教ではどうだったのだろうか。旧約聖書は、古代イスラエルの民が、モーセによってエジプトでの奴隷状態から抜け出し、パレスチナに移住したという物語を展開する。パレスチナにはすでに住民がいたわけだが、それら元からいた住民に対し、モーセを通じて神は次のように命令したとされる。

あなたは必ずその町の住民を剣で打ち殺さなければならない。その町とそこにあるすべてのもの、家畜も剣で滅ぼし尽くしなさい。(申命記一三章一六節)

 これは、文字通り実行されるとすれば、実に恐ろしい命令である。この記述には、戦いがない状態としての平和の姿どころか、キリスト教の特徴とされるところの「愛」のかけらさえ見出すことができない。そして、この神がイスラエルの民に求めるのは次のような「愛」なのである。

心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くしてあなたの神、主を愛しなさい。(申命記六章五節)

 ここまで読み進めてきた読者諸賢は、少なくとも「旧約」のつく方の聖書が、戦いがない状態である平和からはほど遠い書物であることを理解されたことだろう。

〈戦い〉の書としての旧約聖書

 したがって、本書で旧約聖書を〈戦い〉の書として描くというと、戦いを肯定するような旧約聖書中の記述を取り上げていくものと思われるかもしれない。旧約聖書は、ユダヤ教の聖典であるのみならず、「愛の宗教」とされるキリスト教の聖典の一つでもある。したがって、旧約聖書中に記された戦いを肯定する記述を列挙することも、キリスト教に貼られた「平和の宗教」のレッテルを引き剥がすためには面白い試みになるかもしれない。
 しかし、それが本書の目的ではない。本書のねらいは、多くの場合、一見〈戦い〉には見えない記述を対象とし、旧約聖書という書物のテクスト上に繰り広げられる思想上の〈戦い〉を浮かび上がらせることにある。なぜなら、こうした〈戦い〉こそが、旧約聖書という書物が今日のような形になる過程で大きな役割を果たしたからであり、旧約聖書が今日まで伝えられてきた理由の一つでもあるからである。
 旧約聖書の著者たちは、文字の持つ信頼性を武器に、自らを取り巻く社会的・思想的状況に対して、自らのアイデンティティをかけた果敢な〈戦い〉を挑んだのである。それは武器を手にして行う実戦ではなく、むしろそうした実戦を避けるための手段として用いられたテクスト上の〈戦い〉であった。テクスト上の〈戦い〉は、実戦の「抑止力」として機能したのである。
 したがって、本書で使われる〈戦い〉という概念は、実際の戦いというよりは、思想上の対決、葛藤、交渉、対話などを含むより広い意味で用いられることを読者諸賢には心得られたい。

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【著者プロフィール】
長谷川 修一(はせがわ しゅういち)
1971年生まれ。立教大学文学部教授。筑波大学大学院博士課程単位取得退学。テル・アヴィヴ大学(イスラエル)大学院ユダヤ史学科博士課程修了。専門はオリエント史、旧約学、西アジア考古学。 主著に『聖書考古学』『旧約聖書の謎』(中公新書)、『ヴィジュアルBOOK 旧約聖書の世界と時代』(日本キリスト教団出版局)、『歴史学者と読む高校世界史』(共編著、勁草書房)、『謎解き 聖書物語』(筑摩書房)など。

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