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若者とオジサンのコミュニケーションの円滑化はコンテクストの違いを理解するところから始まる。[ローコンテクスト/ハイコンテクスト]

ぼくの部署の後輩に目上の相手が発言したことをイチイチ「ようするに・・・」「つまりは・・・ということですね」といって相手から言われたことを常に要約してまとめたがる子がいる。一流の大学を出ていて頭もいい。それでも話している相手からするとあまり心地よいものではなく、コミュ障というように言われているのを聞くが、ぼくは全然そのようには感じず、これはただのコンテクストの違いなんだと思っている。

「コンテクスト」というのは日本語では一般的に文脈(ぶんみゃく)と訳されることが多いが、話の状況や前後関係、背景などとも訳されることも多く、広い意味で「コミュニケーションの基盤」のことをさしている。

■オジサンと若者の間で起こるミスコミュニケーション

オジサンと若者。ぼくはちょうど中間くらいの世代だが、会社のオジサンと若者の間のミスコミュニケーションが非常に多いと感じる。非常に古くからある会社なので50-60代が非常に多く、30-40代が少ないといった構図がある中に人材確保を名目20代の採用を増やしているといった、一般的な日本企業の構図がある。

オジサンたちは若者のことを理解できないので関わろうとしない。極力間にいるミドルの年齢を介して接するようにするところが多い。一方の若者もオジサンたちを疎ましくおもっているのか適切なコミュニケーションが取れず話そうとしなかったり話したとしてもオジサンを苛立たせて会話が終わってしまう場面に何度も遭遇することが多く、そのたびに「会話のフォローをして場を円滑にしなければ」と思わないといけないことが増えてきた。

ぼくの考えとしてこれは会話に必要なコンテクスト(先ほどの文脈とかコミュニケーションの基盤といっていた言葉)が時代と共に変化してきたことに起因していると感じている。若者とオジサンの間でお互いコミュニケーションのベースとしている会話のスタンスが変わってきているので、お互いうまく話し合うことができず、ミスコミュニケーションが生まれているのではないかと勝手に考えている。

価値観というのは多様化するし、生きてきた時代背景も全くことなる。コミュニケーションの取り方は全くことなるのでビジネスにおいても若手社員と管理層の間で会話がうまく取れる場合が少ないのはこういったコンテクストを共有することが非常に難しくなってきていることが影響しているのではないかと。

■ ハイコンテクスト文化

日本と海外のコミュニケーションの文化や取り方の違いなどを説明する文脈でハイコンテクスト文化、ローコンテクスト文化という言葉を聞いたことがある人も多いかもしれない。

いわゆるハイコンテクスト文化というのはお互いのコンテクストの共有性が高い(つまりハイ)ということをいっていて、例えば伝える努力やスキルがなくてもだいたいお互い話が通じてしまうという文化のことをさしている。

空気を読むといった言葉に代表されるようにお互いに相手の意図を察しあうことでなんとなく話が通じてしまう環境のことで、お互いに前提としていている文化とか文脈とか空気感が同じであればあるほど、多くを話す必要がなく、ちょっとした会話で会話以上の内容を伝えやすい文化といえる。

特に日本という国はコンテクストが共有した時間や一緒に体験したことに基づいて形成される傾向が強いので、例えば「同じ釜のメシを食った」仲間同士という気持ちを大切にしている節がある。

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今度はその逆でローコンテクスト文化というのはどういうものかというと、お互いに前提となるコンテクストをあまりもっていない(つまりロー)ということを前提にした文化でどちらかというと「最初から相手とは分かり合えない。だから会話する」ということを念頭に置いた文化だとぼくは思っている。こういった文化をもっていると、話す言葉や文字に非常に高い価値をおいていて、積極的にコミュニケーションをしていく姿勢が求められる。

このようにハイコンテクスト文化とローコンテクスト文化では前提としているコミュニケーションの取り方がちがう。

ハイコンテクスト文化、つまり多くを語らない文化では、「聞き手の能力を期待する」ことを前提としている。

ハイコンテクスト文化の傾向としては、直接的表現より単純表現や凝った描写を好んだり、曖昧な表現を好むことがほとんど。逆に具体的な表現を嫌い、多く話さない。論理的に飛躍していても相手がそれを埋めるものと理解している。質疑応答の直接性を重要視せず、直接的すぎる質問は攻撃と感じやすい。

一方のローコンテクスト文化は「話し手の責任が重い」コミュニケーションの取り方であって、例えば直接的で解りやすい表現を好んだり、単純でシンプルな理論を好むことが多い。明示的な表現を好んだり、あまり寡黙であることを評価しないし、論理的飛躍することを好まない。質疑応答も非常に直接的であることが好きな文化といえる。

この「コンテクスト」という文化間の違いはアメリカの文化人類学者であるエドワード.T.ホールが唱えたもので、ハイコンテクスト文化とローコンテクスト文化という違いから各国でのコミュニケーションの違いを説明した画期的な識別法だといわれている。

■コンテクストのズレが起こすミスコミュニケーション

ちなみにいろいろな研究によると、ハイコンテクスト文化が強いとされている国はダントツで日本。ハイコンテクストからローコンテクストへの順に書いていくと日本>中国>スペイン>イタリア>英語>フランス語>ドイツ語といったような順番になり、ハイコンテクストの日本とローコンテクストのドイツ語では文化に大きな違いがあるといえる。

このように一般的にローコンテクスト文化を持っているとされている国はドイツ、デンマーク、スウェーデン、ノルウェー、アメリカ、フランスなどが当てはまる。なんとなく日本と中国がハイコンテクストで英語やドイツ語がローコンテクストと聞いてわかるような気がするといつも感じる。

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ハイコンテクストの人とローコンテクストの人がしゃべったらミスコミュニケーションが当然生まれやすいということになる。

聞き手に責任の多くのことを求めるハイコンテクストの人たちと、喋り手に多くのことを求めるローコンテクストの人たちがしゃべるのだからうまくいくはずがない。

ハイコンテクストの人たちはお互い高いレベルで何かを共有していることを前提にしているので、その環境が整わないとうまく会話ができない。相手との会話も弾まないし相手の言おうとしていることが理解できない。ローコンテクストの人たちがたくさんしゃべってきたとき攻撃されているとか、そこまで言わなくても分かっているというような態度をとってしまったりする。

一方のローコンテクストの人たちからすると、「この人は何がいいたいんだ?」というようにハイコンテクストの人たちが聞き手に期待しているもつべき前提をもっていない。相手の話が抽象的に感じ、「結論は?落ちは?反対なの?賛成なの?」と頭の中はパニック状態になってしまう。

■それぞれのコンテクストの長所と短所

これはどちらが良いとか悪いということではなく、言語のなりたちや文化の違いから生じていることなのでただの違いとして認識する他ない。海外生活をしてきたぼくからすると改善はしているが、まだまだ日本は非常に閉鎖的な印象が強いし、アイツはKYだとか仲間意識というものが必要以上に強い気がする場合も多い。

そんなハイコンテクストにもいいところはたくさんある。例えばお互い前提として共有している文脈や背景が多ければ多いほど多くを語る必要がなく、コミュニケーションが非常に円滑に進む。まさに阿吽の呼吸がしやすいという長所がある。会話のプロセスを効率的、経済的にまわすことができるのでコミュニケーションコストがかなり減って情報共有がしやすいという特徴がある。

一方の短所としては事前に文脈や情報が共有されないような短期的で非持続的なコミュニケーションには全く向かない。相手が同じコンテクストをもっていないと意味をイチイチ類推しなければならなくなる。自分とは全く前提としてきた文化などが違う人との会話には恐ろしく向いていないということになる。

ローコンテクストの長所と短所は上記の逆なので割愛するが、それぞれの文化には良い面と悪い面があって、文化的な違いが複雑に絡み合っているということとして認識するだけのこととぼくは考えている。

■ これからは日本もローコンテクストの社会へ

ぼく個人としてはこれからはますますローコンテクストの社会になっていくので、日本もローコンテクストの社会に慣れていく必要があると日ごろから感じている。

これだけグローバル化が進み、テクノロジーの進化が進み、知識や経験の陳腐化がおそろしいスピードで起こる社会では「何かを前提とした」コミュニケーションというのはますます成り立たなくなってきていると言わざるを得ない。

ぼくも日本人なのでハイコンテクストはとても心地よい。お互い共有しているものが多く阿吽の呼吸ができるので快感のようなものもあるといえる。いろいろな個性をもった探偵やスパイ、泥棒が阿吽の呼吸で活躍する映画は見ていて心地よいし、「おまえだったらこうすると思ったんだよ」といって先回りしてヒーローを助けてくれる仲間の言葉にイチイチしびれてしまう。

けれどもグローバル社会は経験・知識・価値観・人生観・倫理観・宗教・歴史などすべてが異なっていることが前提となっている。お互いに偏見を持ちやすく差別も文化の深いところに脈々と流れている。

白人至上主義、ファシズムなどの極端な思想に限らず少なからず共有した文化を分かち合っているものが誰にもでもあるが、事実としてそういった価値観を共有していない人の集まりが人類であるといえる。

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聖書に書かれているバベルの塔(正確にはバベルの塔という表現は出てこないらしいが)では、人間は神を超えようとして高い塔を建てた。それに神は激怒し、それまで共通だった言語を大陸でバラバラにしたという話がある。いってみればそれまで世界で共有していたハイコンテクストの社会を一気にローコンテクストの社会に変えてしまったともいえるのかもしれない。

経験・知識・価値観・人生観・倫理観・宗教・歴史がバラバラなローコンテクスト社会では、「そもそも理解しあえない、通じないからこそ話し合わなければならない」社会といえる。

日本はもともとハイコンテクストの社会で島国として守られてきたという背景もあってこういったローコンテクストの社会に慣れていない。

グローバルになった途端に日本人は自分では頑張っているつもりでも「コミュニケーションに熱心ではない。何を言っているかわからない」と評価されてしまう危険性が高く、それこそ日本人が大切にしている「空気を読めない」ということを逆に言われてしまう可能性がとても高い。

グローバル社会ではコミュニケーション能力=仕事の能力と考えやすいのでせっかく良い意見を持っていたとしても表現力がないだけで受け入れられないということが起きてしまうので、我々はローコンテクストの社会に慣れていくしかない。

■日本人同士の会話もローコンテクストの社会へ

ぼくが中年に差し掛かっていることもあり、ぼくの日本人観はちょっと古いかもしれない点は触れておく必要があるかもしれない。自分自身が異文化で育ったことがあるからこそ、海外と対比した日本というのを意識してしまうが、日本人同士でもコンテクストの違いというのは世代間の違いとしても大きいと感じている。

どちらかというと年配の人はハイコンテクストをもとめるし、若者はよりローコンテクストを求める傾向が日本人の中でも濃淡があるようにも感じる。もちろん、若者もかなり空気を大切にしていて学校でもハブられたりしないように会話には細心の注意を払っているだろう。それでもぼくからすると異文化への許容力というのは確実に上がっていると感じる。

テクノロジーの進化で海外の情報もたくさん入ってきているし、コミュニケーションコストがゼロに近いのでいろいろな文化に触れることが多い。ハーフのスポーツ選手などの活躍も多いし、ジェンダーに対してもより寛容になっている。

こう考えると、日本人同士であっても価値観が多様化しているとすれば、なるべくローコンテクストの社会を構築していく必要性が高まっているといえるのかもしれない。グローバル化が進んだからとは言い難いが、それでも若者の方がグローバルになじんでいける許容力は昔よりは上がっているといえるのではないかと個人的に考える。

■まとめ

ローコンテクスト型コミュニケーションは「言語」による情報伝達が主となり、話している方、書いている方に多くの責任を求める文化であって、それは「お互いに話が通じない」という前提にたっている。一方のハイコンテクストはお互い共有しているものが多ければ空気は読めるし心地よいが相手と何らかの前提を共有していないと機能しない。

そう考えると、オジサンと若者の会話もローコンテクストを前提として、ハイコンテクスト側の人たちがきちんと説明しなければならないともいえる。若者が自分たちとおなじコンテクストを共有していないとしたら、「最近の若者は」というように切り離すのではなく、まずは事細かに相手に説明をするところからはじめる必要があるのではないかと思ったりする。

まあそうはいってもずっとそれでやってきたオジサンからするといきなり相手のレベルに降りていって説明することを「なんで手取り足取り教えねばならないのだ」と思ってしまうのは仕方がないことだと思う。

なので、やっぱり中間にいる30-40代の僕としてはそいったコミュニケーションギャップの間に入ってコミュニケーションを円滑にする役割を担っていく必要性ってあるよなあ、と感じるのである。

ハイコンテクストを理解したうえでローコンテクストにも対応できる。これからはそんな両方の文化を理解して対応できる人が日本人だけの社会でもより必要なのかもしれない。

Keiky.

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