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【第一話】私とは?裕福な家庭で何不自由なく育った私〜生まれ育ち〜

《時は戦時中》


空襲警報が鳴り、頭上を飛行機が飛んで行く。
そして、熊谷にある工場が真っ赤に燃えていた。
空襲警報が鳴ると私たちは灯りに布をかけてひっそりと過ごしていました。

そして、幾許かの時を経て庭に出ると、真っ赤に燃える地平線が広がっていました。

その地平線を茫然と私は見ていたのでした。


私の家は父は国鉄の職員。
祖父は蚕農家。
母は長野の呉服屋の娘。
という比較的裕福な家庭で、兄・弟・妹の4人兄弟で、それは可愛がって育てられました。

幼少期は活発で、幼稚園に迎えに来てくれる母が大好き!
そんな子供だったのです。

活発ではあったが体が弱かった私。
まさかこの歳まで病気らしい病気もせずに元気に暮らせるとは、当時の私を知る人は想像も出来ないでしょう。

夜寝る前に気温が下がってくるといつも咳き込んでいた私。
そう私は小児喘息を患っていたのでした。。。


時折、病院にかかり吸入をし、鍼治療にも通っていました。
そんな幼少期を経て、小学二年生の時に埼玉の親戚の元へ、母と妹と私たちは疎開したのです。


戦禍は益々厳しくなり、住み慣れた東京に父と兄たちを残して田舎へ疎開した私たちを待っていたのは、穏やかな生活でした。
親戚も比較的裕福だった事もあり、私たちが食べるものに困ることは無かったのです。

私は自然の中で畑仕事やうさぎに餌をやり、落ち着いた環境の中で過ごしていました。

動物が大好きだった私は、うさぎを大層可愛がっていました。
毎日、草を取りうさぎに与える。
餌をやる私になつき寄ってくる、その小さな体を私は愛してやまなかったのでした。

しかし
ある日事件は起こったのです。


ある日、学校から帰ると私のうさぎは居ません。

そう、私のうさぎは殺されていたのです。

私は号泣しました。


戦時中の食糧難の中、今考えると当然の事かもしれない。


しかし、その状況が頭から離れず、
私は朝まで泣き腫らしたのでした。


翌朝、落ち着きを取り戻しつつあった私に母は言いました。

『畑もタネ撒いて育てて食べる。
野菜も食べるために育てているよ。
鶏も卵を食べるし、鶏も食べる。
全て同じなのよ。』

と言われたのです。

私は前を向いて歩いて行くしかありませんでした。


戦死した人の遺骨がどんどん帰って来るようになりました。しかし、不思議と悲しいという感情は無かったのを覚えています。そして、疎開から2年経った小学4年生の時に東京へ帰って来ました。

そう。。。

日本は負けたのです。
戦争は終わりました。



東京一帯が焼け野原でした。
池袋の辺りには闇市が広がっていたのです。
私たちの日本はこの焼け野原から立ち上がって来たのです。


何もなかった日本。
全てを失った日本。
しかし、
人々の気力と活気に溢れていました。

今日の《気力・活気のない日本》に、少し残念な気がしてなりませんでした。


そしてこの終戦より、私たちの家族は年に一度の記念日には毎年、家族と叔母で《お粥》を食べるようになりました。

何の記念日か?



それは父たちが焼き出された記念日だったのです。
私たちが田舎へ疎開した後、国鉄の官舎は爆撃され、父たちは破壊され、火の手が上がる街をみんなで離れない様に命からがら逃げ出したのでした。


その逃げる道中で腹を空かせた彼らに《お粥》を食べさせてくれた人がいました。


その時の感動と感謝の気持ちを忘れない為、毎年その記念日には、家族で《お粥》を食べながら、命からがら逃げて来た話を何度も何度も聞かされた私。


思い出話に浸る父と叔母に兄たち、そこに少し羨ましかった私がいたかもしれない。


東京で平穏な日を取り戻しつつあった私たち家族。


《負けず嫌いは子供の頃から》


そして、日本は信じられないほどの経済成長をしていくのでした。

学校に復帰した私は身体は弱かったが、勉強は得意でした。成績はオール5。

私は負けず嫌いだったのです。
体の弱い小さな私は人一倍負けるのが嫌い。そしてその性格は今だにそうかもしれません。

そう、この頃から私は負けず嫌いだったのです。



この負けず嫌いが晩年、女で専業主婦だった私が、49歳の時に自分で商売を始めるなどこの頃には夢にも思って無かったのです。


そんな学校へ通う私の服は全て母が繕ってくれました。母は洋裁が得意で、いつも可愛い、私に似合うハイカラな服を作ってくれていました。
そんな母の作ってくれた服が私はとても好きでした。

ある日、浴衣の生地でワンピースを作ってくれたことがありました。どこにも売っていないそんな服を、どこか得意げに私は着ていたのでした。


母の作ってくれたワンピースを着て歌う事が、私は大好きでした。
歌が得意で、人前で歌うのが大好きだったのです。


時にはラジオでも歌った事もあります。そして劇ではかぐや姫の歌を歌いました。

私は主役を演じていました。
なんと、《日比谷公会堂》で歌わせてもらった事もあるのです。

この様に歌に勉強にと得意だった私ですが運動はからっきし駄目でした。

当時、跳び箱もとべず、鉄棒も大の苦手で逆上がりさえ出来なかった私。


これが原因で、行きたかった《御茶ノ水女子大学附属中学校》の試験に落ちてしまったのです。私は、そこへ進学することができなかったのです。


筆記試験よりも体育が重視される。
現代の世では信じられない事ですが、それが当時の試験だったのです。


『跳び箱が飛べないくらいで私を落とす学校などこちらから願い下げだ』本気でそう思っていました。


いや。。。
自らを納得させる為の痩せ我慢だったのかもしれませんw

最初からダメだと思っていた私がいました。


そう諦めていたのです。
体育のテストがある事で最初から諦めていた私がそこには居たのです。


当然試験は受からなかったのですが、ショックはあまり無かった事を覚えています。

しかし今でも跳び箱は見たくもありませんw


小学生の時、成績はオール5で常に一番だった私が、中学に上がると成績は段々と下がっていき、最後は4番にまで下がってしまいました。


『誰が私を抜いたんだ?』


そう内心思っていた私がいました。そして私を抜いた人間、それが何と同じクラスの男の子。


大人になるにつれ成績優秀者は8/10が女の子だったのが、
女の子の率が年を重ねる毎にだんだん落ちてくるのです。中学3年生の時には10人中、女の子は2、3人しかいなくなっていました。

女性では男性に勝てない。


この頃から男性に負けたくない。
しかし、どこかで諦めたくない。
そんな私がいたのかもしれません。

その後、私は現在の「都立竹早高校」、当時の「東京府立第二高等女学校」という校長先生、教職員は当時の「東京府女子師範学校(現在の東京学芸大学)」へ行きました。

そして運動音痴で歌が得意な私は
コーラス部に入ったのです。

そこで何度もコンクールに出させて頂きました。
このような文化系で、周りからソフトに見られるコーラス部の実態と言うのは。。。
夏休みもなく、その部活内容と言うのは、かなりハードなものでした。


その甲斐もあり、気付けば私たちは
【毎日新聞社の毎日コンクール】で、
なんと《全国3位》になっていたのです。


コーラス部の他にも私はもっぱら文化系の趣味を全うしていました。

そう
私は文学少女?だったのですw


小説家の「幸田露伴」の孫が学校の先輩でもあったので、幸田文さんのお宅でお話をお聞きすることもありました。

石川啄木の下宿、夏目漱石の家を巡って、好きな人たちで本を読みながら本に出てくる人たちの家を巡ったものでした。


その当時の学友たちとの同窓会には「鳩山家」が来ており、よく選挙応援を頼まれたりもしたものです。


私の若い時、この学生時代が一番楽しかったかもしれません。
この頃知り合った、ご一緒させて頂いた友人とはその後も仲良くさせて頂きました。


私の父はと言うと、軟式テニスで70歳以上の部門で優勝するくらいの腕前であり、私の家族はスポーツ一家だったのです。


残念ながら小柄で運動神経の鈍い私。
習いには行った事がありますが、そのセンスの無さに幻滅w



そんな私が後に結婚をした主人の実家にはテニスコートが2面もある華麗なる一族。

何の因果か私はそこの四男坊と出会い東京から関西へ飛び立って行くのでした。

次回は主人との出会い、結婚から私の主婦生活をお話させていただきます。

▶次のお話しはこちら

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◆【エピローグ】

◆【第二話】私の結婚観〜結婚してから好きになるもの、と言う母の教え〜

◆【第三話】華麗なる主婦生活〜上流階級?の主婦たちの生活とは?〜

◆【第四話】必要とされる喜び〜人のお手伝いから仕事を始めた私〜

◆【第五話】主婦が独立〜大嫌いだったパンを食べた途端に感動に包まれた〜

◆【第六話】私を支えてくれた次男の死〜拡大戦略と初めての失敗・転機〜

◆【第七話】時代の変わり目。そしてコロナによる大打撃〜事故で生死を彷徨った私〜

◆【第八話 最終回】85歳の私のこれから〜人生が終わる瞬間まで、現役で働くことが出来るのは「インターネット」だけ〜








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