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【第三話】華麗なる主婦生活〜上流階級?の主婦たちの生活とは?〜

《鈍臭い私の結婚生活》


東京から大阪へ嫁いだ私。
23歳でした。

これを読んでくれている皆さんの中にも感じる方は多いと思いますが、東京と大阪では全く文化が違うのです。

生まれた時から、そこに吉本がある大阪。
当時、土曜の昼間にテレビで吉本新喜劇を見ていない家庭を探す方が難しいw


幼稚園児でもボケとツッコミを習得する大阪。

『アホ』という言葉は挨拶のようなもの。
『アホやなー』は『可愛いなー』と同意語?w


全ては異次元な大阪だが、私は主人だけではなく、その両親にも大層可愛いがって頂けました。


新婚当初こそ借家でしたが、24歳で長男を授かると同時に義両親に家も建ててもらいました。


そして子供が産まれると、それはそれはと喜んで頂き、全てをお手伝いさん3人がサポートしてくれたのです。


身の回りのお世話は全てお手伝いさんがしてくれたのです。


おでんやトイレットペーパーさえ買い物に行ってくれたのでした。
私がお嫁に言った時は女性として何も出来なかった。


しかし
義母は常におおらかで、私を自由に、そしてあまりにも酷い部分に関してのみ、時に言われた事もありますが大切に大切に育ててくれたのです。


・実家暮らしだった私。
・お勤め経験も一年ほど。
・社会人経験もほぼ無し。
・そして私は逆上がりも出来ない程の運動音痴。

そう。。。私は鈍臭いのです。



そんな私を義母をはじめとする主人の家族は温かく見守り育ててくれました。
そんな私ですから至らぬ点も多く、恐らくイライラさせた事だと思います。

しかし
あたたかく私は育ててもらったのです。

私は何の不自由もなく専業主婦を謳歌していたのです。
今で言う『3食昼寝付き』と言うものでしょうか?w


その様な生活の中で長男の後、2歳離れて次男。

そしてなんと14歳離れて娘。
私は女の子が欲しかった。
欲しくてたまらなかったのです。
女の子が生まれた時にはそれはそれは嬉しかったのです。


私には不安もありました。
14歳も離れた子です。
私もその時は36歳。
しかし、みんなが喜んでくれました。
私は安堵したのでした。


子育てをしながら近所の奥さま達と今で言う「ママ友」と自宅でケーキを作ったり、お茶会、洋裁や、時には造花の創作まで。


友人たちと様々な知見に触れ、何かを創作するのは好きだったのです。
これは洋服を沢山作ってくれた母の血を受け継いでいるのかも知れません。


そして造花に興味を持った私は、それを習いに行ったのでした。
そこの先生の依頼を受けて、私はその販売のお手伝いを大阪市内の百貨店で始めたのでした。


「少し手伝ってもらえないか?」というお誘い。


これが働いた事もない私にとっての仕事の入口だったのです。
まさかそれから自分で事業を始めるなど当時は思いもよりませんでした。


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◆【エピローグ】  

◆【第一話】私とは?裕福な家庭で何不自由なく育った私〜生まれ育ち〜

◆【第二話】私の結婚観〜結婚してから好きになるもの、と言う母の教え〜

◆【第四話】必要とされる喜び〜人のお手伝いから仕事を始めた私〜

◆【第五話】主婦が独立〜大嫌いだったパンを食べた途端に感動に包まれた〜

◆【第六話】私を支えてくれた次男の死〜拡大戦略と初めての失敗・転機〜

◆【第七話】時代の変わり目。そしてコロナによる大打撃〜事故で生死を彷徨った私〜

◆【第八話 最終回】85歳の私のこれから〜人生が終わる瞬間まで、現役で働くことが出来るのは「インターネット」だけ〜







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