見出し画像

秦の商鞅(しょうおう)から学ぶ『法』のチカラ。その1=商鞅って誰?

こんにちは。
ケイジ4世のターンです。

今日は『歴史から学ぶ』シリーズです。

またまた中国の春秋時代の人で『商鞅』という人をご存知でしょうか?

✅法家

以前、孫子の話に触れたことありましたが、孫子と呼ばれる孫武や孫臏は『諸子百家』の中で『兵家』に分類されます。

▼孫子の兵法についてです。よかったらこちらもご覧いただけると。、、


今回、取り上げるのは『法家』です。

法家というのは、『法治主義』を、法の重要性、法律によって統治する、という考え方を推奨するひとたちを指します。

代表的な人物に、『管仲(かんちゅう)』や『韓非(かんぴ)』、『李斯(りし)』などが挙げられます。

✅管仲
管仲は紀元前700年ころの『斉(せい)』という国の宰相で、仕えていた『桓公(かんこう)』を『覇者(はしゃ)』に押し上げました。
私が一番好きな歴史上の人物かもしれません。

✅韓非
韓非は秦始皇帝と時代を同じくしていて、戦国時代末期に活躍した政治家です。名前の通り『韓(かん)』という国の公子です。
著書で『韓非子(かんぴし)』が有名です。

✅李斯
李斯も韓非と同じ時代の政治家で始皇帝の元で秦の宰相として活躍した人物です。
韓非と同門で荀子(じゅんし)のもとで学び、秦で呂不韋の食客から出世の道を掴み宰相にまで上りつめます。


今日はその中で法の重要性を説いて法によって身を滅ぼしたとされる『商鞅』から学びます。


✅商鞅って誰?

紀元前350年頃の秦で活躍しました。
秦の始皇帝よりも随分前の時代です。

商鞅はもともと、公孫鞅(こうそんおう)という名前です。

衛(えい)という国の公族出身の為、衛鞅とも呼ばれるらしいです。

のちに秦の宰相となり、商•於(しょう・お)に封じられたことで、商鞅と呼ばれるようになりました。

簡単にいうと商という領土をもらったということです。

商鞅は『魏(ぎ)』という国の宰相の公叔座(こうしゅくざ)という人の食客となります。

そこで商鞅の高い能力が公叔座の目に止まり、魏王に次の宰相として推挙されるほどでした。

その時、公叔座は『もし、宰相として迎えるつもりが王にないのであれば、商鞅を殺すこと』と王に進言しています。

他の国でその才能を発揮される事を恐れたということです。

でも、魏王はその公叔座の言葉に対して「無名の商鞅に国を任せるなんてできない」と一蹴します。公叔座が高齢だったために判断力などが低下したのだろうとも考えていたようです。

その後公叔座はやはり、その才能を殺してしまうのは勿体無いと商鞅に向かって王とのやりとりを伝えてすぐに逃げるように伝えたところ商鞅は焦る事なく『大丈夫』だと。

でもでも、またこれがすごい。

魏王は『商鞅の採用』を取り上げなかったということは、『商鞅を殺す』という言葉も取り上げないだろうと。

たしかに。。。

その後、有能な人材を集めていたもいう秦に向かい仕官します。

そこからが商鞅の本格的な物語のはじまりです。

▼参考資料


次回に続きます。


ではまた。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?