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福沢諭吉「実学の必要」から考える学問の意義

こんにちは 
前回の紹介した「人事に学問の思想を要す」は文明または社会の発展の基礎として多くの人が学問を学ぶ必要があると、マクロ的視点から実学の必要性を説いたものでした。

今回の記事は「学問なんて机上の空論で意味ないじゃん」といった意見に対して、福沢が個人レベルでなぜ学問が必要かを説いたエッセイになります。『福翁百話』で「人事に学問の思想を要す」の次に掲載されたエッセイなので、2つセットで読みたいですね。

現代語要約

 世間を見れば、学問を修めた人の生活が必ずしも安定しておらず、さらには学問をしたことで実社会に適応できず貧乏人苦しむ人もいる一方、無学の人がかえって財産をなしている人がいる。これを以て学問教育が無益なものという者がいる。このような主張の起源は長年日本に流行した漢学が原因で、すでに人々がそれを避けるようになっており、学問と聞けば空論だと思っているからである。

 私が長年唱えているのは実学である。勉強によって得た知識見聞を実生活に活用して、独立した生計をたて、心身ともに安心できることで人生の目的を達成することを目指すのが実学の本領である。
 ただし文明の実学は事物の真理原則を明らかにしてそれを活用する方法を説いたものである。たとえ実際に仕事についても学校で実際に訓練していなければ学問は役に立たない。しかし、実社会において学問が大切なのは、将棋でいう定石、槍剣術に形があるのと同様である。あらゆる活動に根拠を求めることを忘れてはならない。定石や形はこれらの根本理論であり、実際に行われる様々な活動もその根本は同じである。故にこれを知らなければ到底達人にはなれないことは言うまでもない。

 実業家と自称する商人達が無学無識で家業を維持したり、または起こしたりすることさえもあるが、これは数百年来社会に浸透した無学の遺風のおかげで失敗をしていないだけである。文明の潮流は非常に急激で、無学の商人が失敗して家を滅ぼすのも遠くはないだろう。後進の文明学士は学問を無益と言う凡俗の意見に耳を傾けず、学問に集中して進むのみである

考えたこと

① 学問の役割

 現代でも学問なんて理論上のものだから実際には役に立たないっていう人いますよね。 教師の中にも教育学なんて学んでも実際の現場では役に立たないていう人もいます。でもそれはお門違いで学問の活用の仕方を分かってないんですよね。福沢が学問は「将棋の定石」や「剣道の方」と同じだと分かりやすく例えてくれているように学問は基本となる理論なのです。だから、実際にそのまま用いたら上手くいかないのはあたりまえです。定石どおりに将棋を指しても勝てませんし、剣道でも形通りに試合は運びません。理論はそのまま使うものではなく、実際の現状に合わせて工夫して用いたり自分が行っていることを理論に照らして分析したりして用いるものです。そして、学問を活用する力は実地での訓練が必要です。学問を修めれば仕事が出来るようになるようなものではない訳です。理論を学んだうえで、それを活用する方法を考え、行動していくことが学問を実学にするわけですね。

② 変化が急激な時代にこそ学問を

 文明の変化が急激な時代に、いずれ無学の商人は家を滅ぼすのも遠くはないと述べています。実際にそうなったかは分かりませんが、時代の変化についていくためにも福沢が学問が大切であると考えていたことが分かると思います。
現代も科学技術の発展は目覚ましく、外形的なことの変化は著しいです。しかし、自然の摂理や人間の本質など変わらないことも変化していること以上にたくさんあります。変化が急激な時代だからこそ、普遍性のある理論を基盤として思考する力実証的に真理を明らかにしようとする科学的な精神を身に付け、本質的に物事を考えていく力が大切だと思います。


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