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縦割り行政→公務員はけしからん!不毛な思考停止は今日こそ終わらせる。(後編)


前回の復習

ざっくりいうと、公務員の数は減っている中で仕事量は増えている。そして、メンタルヘルスは悪化し、公務員試験を受験する受験者も減ってきている。



前回、相当ひっぱってしまったので結論からのべる。



Q:なぜ縦割りがあるのか?



A:国の行政組織が作られたときに、はじめから縦割りで作れた。なぜ縦割りなのか、ではなくて、そもそもが縦割りだったのだ、、、


A:そもそもが縦割りだったのだ!!!!!!!



僕自身、



「お前の固い頭を豆腐みたいにしてくれようか。」



罵倒を受けた日から、なんで縦割りなんだと、縦割りを恨んでいた。が、この回答を見つけたときには安堵した。


「はじめから縦割りだったんだ。誰のせいでもなかったんだ。」と。


もちろん、背景や歴史はこのあと説明する。結論が竹を割ったような回答であるが、それ以上でもそれ以下でもない。本当にそもそも縦割りで組織が出来上がった歴史があったのだ。少し時間はかかるが、地方自治の文脈とともに振り返る。



地方自治、3つのターニングポイント




地方自治は大きな改革が三つあったといわれている。明治維新・第二次世界大戦後・橋本内閣での改革。橋本さんだけ粒が小さい気もするが、ざくっと説明する。



・明治維新において、日本が近代化がスタート。江戸幕府のパラダイムから一気に近代化のパラダイムへと変化が劇的に起こった。

・戦後、地方自治法が制定されて「地方自治」の夜明け。

・橋本内閣のもと、2000年に地方分権一括法が制定され、地方と国の関係が名実ともにイーブンになった。



その3つの時期にどんなことがあったのか、ということを詳しく説明していく。


※これから先は、専門的な領域になる。自分の理解した範囲で説明していく。もしも間違えてることなどあったら、指摘してほしいし、鵜呑みにもしすぎないでほしい。また、参考・引用したソースも記載する。


明治維新で起こったのは、封建制度→近代化のパラダイムにともなう社会様式の変化


そもそも、日本の近代化は、みなさんもご存知の通り、明治維新に起因する。それまでの日本は統治観は封建制度である。徳川幕府の時代は、日本に3百の諸侯がいて、それぞれが領地をおさめていた。外交は幕府が担当していたが、各藩は自らのやり方で政治と行政を行っていた。なので、税金も治安も教育も藩ごとに違った。藩札も発行されていたので、藩が違えばまるっきり違う制度の中で領民は生きていたのだ。(地方自治法入門P56)



明治維新、当時の日本は自然村で2万以上も村があったとされている。幕府・藩という大きな統治の中に、それぞれの自然村で行っていた小さなルールでの自治もあったと想像する。



日本の民族学者である宮本常一氏の著書「忘れられた日本人」という本のなかで、民族学者として地域に伝わる巻物を写させてほしいというお願いをとある小さな村でお願いしたところ、三日三晩の話し合いの末にOKがでたという描写がある。



昭和14年頃の話出そうだが、おそらく自然村でのいざこざや自治はこんな風に決めていった側面もあるのではないだろうか。また、時代劇でよくみる地方の名家や、地域の長のような人が困りごとを解決する、なんていうことも。(ここらへんは詳しい人いたら、教えてほしい。)




かつて日本には2万以上の自然村は近代化によって、府県や市町村の行政的な区切りにまとめていった。誰もが知っている「廃藩置県」や「戸籍法」である。



このときに廃藩のかわりにおいた県の代表、つまりは知事は、選挙で選ばれた人ではなくて、内務大臣に任命された官僚であった。今でいう行政区の県は、地方自治体として独立した団体ではなく、中央政府の出先機関だったのである。



300百あった諸侯を全員、東京に集めて解雇し、代わりに官僚として知事を送り出した。単純にいうと日本株式会社を立ち上げ、全ての藩をM&Aし、かわりに県という支店長を全47支店に配置したのである。M&Aにより、藩ごとに違った制度が刷新され、新政府が「これからはこれだ!」と提言したものが日本中で同じことが起きるような仕組みが出来上がった。この支店長を送り出す官選知事の権限を持っていたのは、内務省である。




また、1871年に戸籍法が制定され、自然村を行政的区分けがどんどん進んでいった。その時に国の役人として戸長が配属されるのだが、彼らの多くは地方の名望家であった。名望家は聞き慣れない言葉だが、要は、名家だ。地域における明治維新の波及は、それまでも力のあった名家の人々に公権力を与えたモノにすぎなかった。



中央政府の出先として県が統治されたことと、地域においても名家が公権力を持ったことを考えると、精神性としては、自治するよりマネジメントしてもらう、という、そもそも「タテ」が育ちやすい土壌が公務員の世界にも、地域の世界にも出来上がっているように感じた。



(違う文脈だが、なぜ地域の名家に議員さんが今でも多いのかっていうのは、繋がりがあるかもしれない。※ちなみに創設当時の地方議会の選挙資格は名望家のみだった。)


「地方自治」の夜明けは、縦割り行政のはじまりでもあった。第二次世界大戦後の歴史


戦後最大の変化は憲法の8章に「地方自治」の項目が設けられた。第8章の九二条にはこうある。「法律でこれを定める」の法律こそ、地方自治法にほかならない。


第八章 地方自治
第九十二条 地方公共団体の組織及び運営に関する事項は、地方自治の本旨に基いて、法律でこれを定める。



戦前までの中央集権的、官僚主義的な制度から、民主主義的地方分権主義へ、ドイツ型からアメリカ型への自治制度へと変化していった。中央集権的だったものが地方に分権されていく、その流れだ。主な変化は以下。


・日本国憲法に地方自治に関する規定がおかれた。

・地方自治法が制定された。

・知事官選制が廃止され、新たに知事公選制が採用された。

・内務省が解体され、内務省の傘にあった警察は自治体行政として分権化された。

・シャウプ勧告にもとづき、国と自治体で税源が分離された。

                       概説・日本の地方自治P7



ここまできくと、中央集権的な性格だったものが地方に分権されて、各々が自治していくってあるべき姿ではないかと感じる。しかし、現実はそうではなかったらしい。以下、「地方自治制度の沿革」から引用する。


地方自治、入れ物だけで中身はなし!の戦後



しかし、その実質、中身はこれと全く乖離した。制度が変わったというのは、地方自治法条のたてまえがそうなっただけで、実体的には、中央各省に地方支配の体制がタテ割りの系列で強力にかつ地方のすみずみまでに浸透した。戦後、各省は競って新しい実定法を作った。そして、それらの個別の実定法の中で、「地方自治の趣旨とはまったく別個のコントロール方式」(長野士郎氏)を作り上げっていったのである。


換言すれば、それまでの「内務省、官選知事の系統による地方行政の総合的な統制ルートに代わって、中央各省のタテ割りの統制ルート」が、極めて強力に府県、市町村へと浸透したのである。



長野士郎さんは、1942年に内務省入庁、その後、岡山県知事を6期つめたり、「地方自治の神様」といわれるまでになった人物らしい。国と地方の両方の視点を持った人物だと想像する。内務省は戦後に解体されてるので、混乱の時代を駆け抜けたに違いない。



社会人類学者の中根千枝氏が「タテの線を伝わり、その・・・底辺にまで難なく達する・・・世界に火類のない行政網」(地方自治制度の沿革P86)と揶揄するほど、日本の「タテ構造」の志向性はそのまま残された。「地方自治の夜明け」のはずが、容れ物だけで中身はない。むしろ「長い夜」の始まりだったのかもしれない。



長野氏の表現を借りるのであれば、戦前以前の構造は、内務省にて各省の総合調が行われてる場があった。それまでは、理路整然としたタテルートだったのが、横の連携が取れないタテルートになったのが戦後だったのだ。



明治維新後にできたタテを醸成する土壌に、横の連携が取れないタテルートができた。これこそ、現在の縦割り弊害を生んでいる源流ではないだろうか。


※中根氏の著書は今後読んでいく



地方分権一括法により、地方と国の関係性へは名実ともにフラットになる。
  


地方自治最後のターニングポイントは、2000年の橋本内閣が行なった地方分権一括法の制定である。明治維新では、中央政府による日本株式会社による都道府県の子会社。また、第二次世界大戦では、地方自治のはじまりにおいて、強烈なタテ割りルートができたことを言及した。


明治維新後では、都道府県は官選知事により国の出先機関という位置付けであったが、第二次世界大戦後、地方と国の関係性はフラットになった、かのように見えた。しかし現実は、入れ物だけの中身なしと揶揄されたり、機関委任事務制度といって、知事や市町村長を国の下部組織として国の仕事をさせる仕組みが残っていたのだ。


新憲法が作られてからも、機関委任事務については、知事は大臣の命令に従って、処理しなければならなかった。


その仕組みが地方分権一括法で変わったのである。主なもの変更点は以下。


・国と地方公共団体の役割分担の明確化


・機関委任事務制度の廃止


・国の関与の見直し


この法律によって、これまでの上下、主従の関係から、対等、協力の関係になったのだ。例えば、コロナ 対応でも、国と地方の対応が変わったり、緊急事態宣言については、知事から国に要請したりしていることは、国と地方の役割が明確化されて、対等の関係になったからなのだ。



やっと対等になったとはいえる。そう考えると、地方自治がはじまったのは、ごくごく最近であるし、そのための動き方、様式、意味を模索しはじめたばかりの20年ともいえる。



しかし、とにかくタテ・タテ・タテのマインドセットはいまだにどこもかしこにも残っているのではないだろうか。だって、ずっとそうだったのだから。



と、ここまで書いて、固い頭を豆腐みたいにしれくれようかおじさんに話をふってみる。





「この文脈で、地方公共団体ってタテ割りなのです。」




計8000字弱で伝えてるので、もっと怒られるだろう。



最後に。なぜ、そもそもタテ割りだったのか、というのはちゃんと理由がある。


次回、内務省はなぜ解体したのか、タテ割りの目的。タテ割りのメリット。そして、自分の考察。いくつかのテーマとともに振り返って、壮大なタテ割りの旅を終える。




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