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星と人の間に ニューヨークで絵描きとして生きる (10)

ニューヨークで、絵描きとして活動してきている啓茶(ケイティ)、ことKeico Watanabeです。
私がアメリカに来てから、27年。
これは私がニューヨークに渡って、絵描きとして生きてきた日々の物語です。

最初から読む


ヒラリー・クリントンの手紙

現実に追われて絵がとまっているではないか。
ソファーに倒れこみながら、絵の構想を考えた。



そして大きな油絵を描いた。タイトルは「リグレット」

進まなければいけない。怖がっていてはいけない。
鳥籠の鳥がニューヨークの空に飛び出そうとするように。


そしてその絵は、「ホープ」というタイトルで個展に出品されて、数年後に販売されることになる。

そんな中、ヒラリークリントン事務所から電話がかかってきた。

「ケイティーはいる?こちらは、ヒ??オフィスのメァ???だけど

流暢な英語は聞き取れなかったが、ヒラリークリントンのオフィスという言葉はしっかり解った。



何度か聞き返すと、書類を送ったけど、その後どうしたかという電話だった。
こちらの状況としては、弁護士事務所が911でダメージを受けているので、今は返事出来ていないけれども、必ず書類は出します。
そう答えて、ありがとうと伝えることが出来た。

受話器からは優しい口調で、

「私の名前は、メアリー、ペンは持っている? 電話番号を言います。エニータイム、質問があったら何時でも電話してくださいね」


電話を切ってから、しばらくじっと立ったままだったが、心に少しだけ光が届いて来た気がした。

ちょうどお世話になっている財団からも「ワシントンアワード」という賞をいただけたので、その賞状と、ヒラリークリントン事務所からの手紙など追加書類のコピーも足して、移民局へ提出した。

数ヶ月後グリーンカードの再申請も受諾され、グリーンカードを手にした。

晴れて「グリーンカード保持者」となって、労働して良いという身分になったのだ。
だが、気がついてみたら、グリーンカードを持っているからといって絵が売れるようになるわけでもなく、仕事が舞い込むわけでもない。

グリーンカードという響きには、アメリカ人と同等に未來が開けて来るような錯覚があったが、いざ取得してみると、そこから行動しないと何も変わらないのだ。

学生ビザの維持のために語学学校に行ってはいたが、英語が流暢になったわけでもないし、できれば英語の勉強も続けたいので、生活じたいは変わらなかった。


道端で絵を売ってはみたものの

最初にできる資格取得は『ベンダーライセンス』だった。
ベンダーライセンスとは、販売許可のことだ。

道端でアートや本などの商品を販売して良いという許可を取り、手芸の上手な友人のミオンと一緒に、さっそくチェルシーの道端で、折畳み机を運んで、黒い布を広げた。

半分は私の絵を飾り、小さな作品も額に入れて並べた。もう半分はミオンがマフラーや毛糸の帽子をカラフルに並べた。

急に温度の下がった11月で、1時間もその場にいると、身体がかじかんできた。
ミオンの帽子に興味を持つ人は何人かいたが、私の絵を買おうとする人は誰もいなかった。 
だんだん会話もなくなって来て、寒いねと何回も、何回も言い続けた。

店開きを応援してくれた友人がコーヒーを買ってきてくれた。その熱いコーヒーは本当に美味しかった。

何も売れていないのに、タクシーで帰ったら何やっているかわからないよねと、落ち込む私たちにそのコーヒーを買ってきてくれた友人がタクシー代も出してくれて、とりあえず引き上げましょうとアパートに戻った。



それ以来ベンダーはやっていないのだが、役所から納税などの書類が山ほど届き、面倒な思いだけの経験となった。

ニューヨークでアートを売るのは、南極で氷を売るのと同じだ。
ふと誰かが言っていた、そんな言葉が脳裏をよぎった。


* * * * *

あなたに届く星


強くあれ雄々しくあれと

トンガリ帽子の摩天楼



皮膚に迫る外気を感じ

お腹に力を入れる



立ち入り禁止の張紙を破き

全てのスイッチを切ってみる

錆びたアンテナを磨いてみる



優しく愛し穏やかであれと

大西洋から偏西風



汚れのない麻布の衣で

羊飼いは眠りにつく



枠のない自分に酔いしれ

鉛筆でクルクルと描いてみる

遠い光と交信してみる



新しいメロディーを探そう

空の星達と一緒に


* * * * *
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