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50歳の転職②

40代も半ばを過ぎ、すっかりバッターボックスに立つ回数が減ってくると、ベンチ要員として大人しく座っていればいいものを、プライドがそれを許すことができないのか、成長著しい若手の足を引っ張ってしまったり、同期の出世に嫉妬に駆られたりと、いろいろと面倒くさいことを起こす輩もいるものだ。
余裕をかましたふりをして、ありがたく黙って座っていればいいのに。
そこで自分の人生に集中することだ。
「近所に住む同じ年齢ぐらいの人物が〇〇会社の役員で、ハイヤーが毎朝迎えに来るんだよ。羨ましくてさ~」と、60歳近くのご年配が申していたのを聞いても、筆者は全くピンとこなかった。
サラリーマンとはそんなことを目指す為に、人生の膨大な時間とエネルギーを費やすものなのだろうか。
稀に窓際だけれども年収2,000万の人材をWindows2000と呼ぶそうだが、年収1,000万で窓際のWindows1000ぐらいの人材なら、そこそこの数は居るだろう。
Windows1000を喜んで、大人しくそこに座っていればいい。
成毛眞さんの著書『40歳を過ぎたら、三日坊主でいい。 新・ミドルエイジ論(2013)』の冒頭では、”全力”で脱力系の生き方をしろと説いている。
”全力”の脱力とは、自分以外の関心事を捨て去ることだと考える。
そして、自分の人生に集中することだ。
気を溜めて、消えかけたバッターボックスの白線を自らの手で描けば、そこからまた新たに始まる。
ひたすら自分の人生に集中するのだ。
余計なものを捨て去って、皮一枚ぐらいに削ぎ落されてしまえばいい。

40代、50代のサラリーマンが、ひたすら自分の人生に集中することはとても大切な作業だ。
「もう歳だし、肩書きや役職など興味ない。あとは自分の好きにやらせてもらう」と対外的は言っておきながら、本当に自分の人生に集中している人は少ない。

そうは言いつつもLinkedInに敏感な人もいるのでとても面白い。
余計なものを捨て去れない悲哀みたいなものがそこにはある。
バカボンのパパみたいに「これでいいのだ!」と、言い切れない何かがそこにある。
その何かが何であるかといえば、「私の人生こんなものだ」という諦めというか潔さよりも、「私の人生こんなはずではなかったのに」といった焦燥感というか被害者意識みたいなものが勝っているからだろうか。
そのような人たちは、隣近所の役員に毎朝ハイヤーがお出迎えするのを見るたびに、心が“ざらざら”するのだろう。
ハイヤー役員とはいかなくても、例えば、「俺の当初の計画では今頃は個室の一つでも与えられていたはずなのに。それがオープン・スペースに座って、向いのアホ面した部下を何で眺めていなければいけないのだ」とお嘆きのミドルは、それなりに存在しそうだと想像できる。
そのような“ざらざら”感はミドルに転職という能動的な行動に向かわせるものだろうか?
「チクショー!」と吐き出すのが精いっぱいなのではないか。
ちなみに筆者は、オフィスで隣の人に聞こえるぐらいの音量で、「チクショー!」と発した人物で、成功している人に出会ったことがない。
また、余談ではあるが、ビジネスの場面で女性を「あのアマ」と陰口を叩く男性社員にも成功している人を知らない。
さてと、それでは心の“ざらざら”を取り除くべく、現職を追われているわけでもなく、しがみつこうと思えばしがみつけるのに、わざわざ40代後半や50代で転職をする稀有な人物はいるのだろうか。

心に贅肉が付き過ぎた人物だったら、自ら望んで転職という階段を駆け上がることはないだろうけれども。
(つづく)

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