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自分を起点にした先生を目指せるか

こうあるべきという固定観念から抜け出せない。

教科の専門性を高め、素晴らしい授業をする。

教材研究をとことんやって、授業を展開する。

本には素晴らしいロールモデルがたくさんいる。
研究会にいけばそういうすごい教師がいる。

しかし、私たちはそうなるべきなのだろうか。
平凡な私は本当にそうなりたいのだろうか。
そして、なれるのだろうか。

私は自分の資質を知り、なるべきでも、なりたいわけでもないと言えるようになった。

教師たるものそうならねばならないと自分に呪文をかけていた。
どこかで同じようなカリスマになれるんじゃないかなんて自分とは似合わない夢を描いてみたのかもしれない。


私たちが子ども心に憧れた先生はそうだったか。

私はそうではない。

私のことを信じ、心に寄り添ってくれる。
そういう先生だった。

世に名も知られない、普通の先生。

でも、その先生が私の特別だった。
どんな素晴らしい実践以上に特別だった。

ただ、それだけでいいはずなのに。

教授のカリスマを目指そうとするし、その研鑽ばかりをする。

多くの子どもを幸せにするにはそうすべきだと思ってしまう。それがこの世界の方法論だから。

しかし、そうする内に本当の根源にあった子どもの心を忘れてしまっていないだろうか。
そんな中で抜け落ちてしまった何かがないだろうか。

私たちの力が発揮されるのは、授業なのか。

もちろん授業は大切だし、研鑽もする。

ただ、私は先生の力の源は人間性にあると思う。

こんなの誰しもわかっていることだけど、これを声を大にして言えないのが現場ではないだろうか。

生温い教師観だなんて捉えられてしまいがちだが。

ここで大切なのは、生まれながらにして私たちは皆、魅力ある存在だということ。

では、みんな既に力を発揮しているのか。

そうとも言えるが、言えないところがある。

その人間性が良さとして活きているかだと思う。

私は、自分に正直な人はキラキラして見える。

ただ、自分に正直に。それだけでいい。

自分の中にある幻想。
大人になってから想像した
教師らしい教師像を捨てる勇気が必要だ。

私らしい先生になる

ずっと私は漠然とだが、多くの先生が自分らしさを殺さないといけないと思っていることに気がついた。

私もそうだった。私らしさが弱さだと思った。

しかし、実はその弱みが私の強みだったのだ。

私の場合は、
『とことん子どもに寄り添いたい』という気持ち。

そんなのどこかで割り切らないといけないと思う。

実際はそれを割り切らないことが私の強さになる。

教授のカリスマにはなれないけれど、人より強く相手に寄り添いたいと願うことはできる。

そしてこれは、私以外の多くの先生も得意としていることなんじゃないだろうか。

子どもの幸せを自分の幸せに感じる才能を先生たちは既に持っている。

でも、子どもの幸せを思うあまり、自分の正直な気持ちに蓋をして自分も子どもも苦しめてしまっているなんてことはないだろうか。

子どもより少し先に生きている。
それだけで私たちの強みは十分にあるはずだ。


私は少しずつ、自分なりの目線で教育現場がなぜ疲弊しているのかが見えてきた気がする。
そして、その人らしさを生かすことの必要性について強く願えるようになってきた気がする。

今よりみんなで幸せに働きたい。

先生の在り方を私らしい在り方に。

私たちは先生になって0からスタートしたのではない。

既に多くの強みを持っているから先生になった。

しかし、多くの人がその強みを打ち消してしまい、活かせないまま、こうあるべきに飲み込まれている。

みんながもっと幸せに働ける。そう信じている。

そうすれば、学校がもっと笑顔に溢れる。


今できる形にして発信する準備を始めよう。
30歳いいスタートきれてるなあとワクワクする。
みんなのおかげ。

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