『建築家のドローイングにみる<建築>の変容 −−ドローイングの古典、近代、ポストモダン』 13

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3-3-2. ル・コルビュジェのコラージュ

 ところでテラーニはこのようなコラージュによる表現を、ル・コルビュジェの影響によって思いついた可能性がある。グルッポ7は、そもそもカルロ・エンリコ・ラーヴァがル・コルビュジェ(1887 - 1965)の『建築をめざして』に非常な感銘を受けメンバーに紹介したことをきっかけとして結成されたという経緯があり、彼らのコルビュジェ崇拝にはひとかどならぬものがあった。

 コルビュジェは、ドローイング自体の中にコラージュすることこそ無かったものの、雑誌『レスプリ・ヌーボー』や近代建築を代表する著作『建築を目指して』などにおいてアクロポリスやパルテノン、パンテオンなどの数々の古典建築を取り上げ、その写真を掲載している。そこでは古典建築が建築の一種の祖型として参照されているのだが、その参照の仕方は単に古典建築を古典建築として取り上げるものではなく、それを近代的精神の新しい目をもって見直されるべき対象として示すものである。例えば『建築をめざして』の図版を見てみれば、他に掲載されている写真はたとえば鉄橋、サイロ、商船、飛行機や工業部品等といった極めて近代的、工業的なものばかりなのである。この中に同列のものとして並べられることによって、古典建築は新たな評価の目を向けられることになるのだ。(図24)

「飛行機は、確かに、近代工業の中できわめて高度な選択の産物の一つである。・・・飛行機は、発明と知性と大胆さを、想像力と冷静な理性を動員した、と断言することができる。同じ精神がパルテノンを建設した。」59*

 このような彼の主張や「パルテノン、この驚くべき<機械>」(60*)というような言葉を合わせて考えるなら、コルビュジェのイメージの並列的な提示は、古典的建築を近代的な「新しい精神(レスプリ・ヌーボー)」によって捉え直そうとするものであるということが出来るだろう。そしてこのことは同時にその反対のこと、つまり近代工業の産物を古典的建築を規範とした精神の中に位置づけ、それに正統な地位を与えることでもなる。(「パルテノンと自動車とを示すことにしよう。・・・・このことは自動車を高貴なものとする。」(61*))このことは<古典建築=工業生産品>という新しい地平において建築を提案しようとすることに他ならない。テラーニのように同一のドローイングの中で古典建築を併置するようなことこそなかったとはいえ、コルビュジェのこの考え方はグルッポ7の「伝統」の捉え方と非常に良く似ており、それに多大な影響を与えた当の原因であることは間違いないだろう。そもそも「新しい古代」というグルッポ7のスローガン自体の中に、すでにコルビュジェの「新しい精神(レスプリ・ヌーボー)」の残響を聞き取ることができるのである(62*)。

 コルビュジェは、このような数々のコラージュによって、古典と近代の融合する新たな建築の表象を作り出すことに成功している。そして図24のような画面を目にすることによって、パルテノン神殿を合理的な<機械>として見る視点が生まれ、その表象は結果として我々の建築空間の体験の質をも変化させることになるのである。コロミーナが述べるように「空間の知覚はその表象によって作られる。この意味で、実際の空間はドローイングや写真、あるいは描写以上に正当性があるわけではない」(63*)のだとすれば、イメージの重ねあわせによって生み出される新たな表象もまた、建築において大きな意義を持っているといえるはずなのである。

 ここでさらにコルビュジェのコラージュ的なドローイングに触れておこう。図26に示すのは、『ユニテ・ダビダシオン』という集合住宅案におけるプレゼンテーション・ドローイングの一枚である。このドローイングは集合住宅の中のメゾネット・ユニットの1つの様子を描いた透視図であるが、面白いのはそこにはミースの手の写真がコラージュされ、あたかも引き出しを引き出すようなかたちに描かれていることである。このドローイングは、基準となる「ユニテ」の集合によって集合住宅を設計していくという手法と『ユニテ・ダビダシオン』の基本コンセプトである建築の標準化の試みの斬新さを、これ以上ないくらいに明快に示している。このようなイメ−ジを見ることは、完成された『ユニテ・ダビダシオン』においてはおそらくこれほどに明確でなく潜在的なものとなってしまっている単一性や標準性といった本質を顕在化させることに繋がり、結果として『ユニテ・ダビダシオン』という建築自体をも大きく左右するような影響力を持つものであろう。また、このドローイングは『レスプリ・ヌーボー』23号に掲載された、「要求のタイプ」と名付けられた記事の中のキャビネットの写真(図25)とも酷似しており、建築家がおそらく自らの建築にキャビネットのイメージを重ねあわせ、機能性を強調したであろうことが想像できるのである。

 このように、コルビュジェの紙面におけるイメージの配置やドローイングにおけるコラージュは、ただ単にその像が代理しているものを指し示す、デノタティブな記号作用のみを果たすものではなく、むしろそれ以上にコノタティブな次元において建築の表象を変化させる効果を担っているということができるだろう。コロミーナはこのような効果について以下のように述べている。

「イメージはここで、既にある本物のオブジェ(つまりル・コルビュジェの実現策)を表象するために取り入れられているわけではないのだ。むしろイメージはもう一つのオブジェを形成するのであり、あらたな種類のスペクタクルを生み出すために使われるのである。ル・コルビュジェは再生産の方法を、生産のために使っているわけだ。彼は生産者としての作者である。 」(64*)

このような分析はテラーニのドローイングについてもほぼ同様に適用出来るものだろう。テラーニのドローイングにおける古典建築のコラージュも、単にある古典建築の参照指示としてあるというのみならず、彼自身のプロジェクトと相互に作用し、「あらたな種類のスペクタル」を生み出すものだと考えられる。そしてこうして生みだされた表象は、単なる代理表象である以上に、建築家の発想やイメージといった<アンビルダブルな属性>を伝達するものなのである。


3-4. まとめ −−<近代的ドローイング>の機能

 以上述べてきたように、近代に入ってドローイングは建物の代理表象である<古典的ドローイング>とは異なった機能を持つものへと変化してきた。

 まず第一に、近代的なドローイングの特徴は、それが施工者や特定のクライアントなどの実際の建設の関係者に対してではなくて、不特定の多数者に対しての直接的な伝達として描かれ、いわば一種の「宣言」として機能したということである。またこのような機能は雑誌や展覧会での展示などといった、建築家にとっての新たな表現行為の場の登場とリンクして生じてきたものである。

 そして同時にそういった場の持つエフェメラルな性質は、<建築>を非物質的でコンセプチュアルなものへと変容させる契機となるものでもあった。この結果としてドローイングは、デノテーションとして建物を描いた代理表象にとどまらず、建物という形では実現出来ないもしくは建物が保持し得ない、<アンビルダブルな属性>を表すよりプレゼンテーショナルなものになっていった。

 この<アンビルダブルな属性>とは例えば、ミースの「構造的思考」のように、現実の建物としては完全には実現出来ない理念的なコンセプトや、リシツキーのドローイングが描くような実際の建物においては表象不可能な「抽象的空間」、あるいはまたテラーニやコルビュジェのコラージュが生み出す、コノタティブなイメージの連合などといった、非物質的な性質のものである。これら非物質的なものは建物の建設には直接かかわるものではないが、建築的な提案として意義のあるものであることに間違いはない。<近代的ドローイング>はこのようなコンセプチュアルな次元のものをも含んだ表象の提示としてあり、それらの表象の総体として建築を構成し、伝達するものである。そしてそれはこの伝達を果たすために再現的な表現というよりも、建築の主題を強調した抽象的な表現をとることになる。

 このような抽象化は明らかに今日のプレゼンテーションドローイングの基礎となってきたものである。例えば、スサーナ・トーレの『コートジボアール共和国大使館(1977), p.156』のようなドローイング(図27)は、まぎれもなく本章で述べてきた<近代的ドローイング>の流れを汲むものであり、近代における新たな表現の開発なくしては成立しなかったであろうものである。

このドローイングにはこの章で取り上げたさまざまな近代的な表現手法が用いられている。まずドローイングの左側部分の二枚の平面図を見ると、それらは、グレー、水色、ピンク等の色で鮮やかに色分けされたものとなっている。この色づけは、ゾーニングの計画を表すダイヤグラム的な性格のものであり、当然ながら実際の建物の色を表すものではない。我々は既にこの種のプレゼンテーションドローイングに見慣れているから、このドローイングの色分けが観念的なものであるとすぐ了解する。おそらく描かれている通りに建物の色づけがされると考える人はほとんどいないだろう。しかし代理表象としてのドローイングしか見慣れていない近代以前の人々は、これをおそらくそのままカラーリングの計画として受け取ってしまうことだろう。このことはつまり、こういったドローイングの表現が新しく開発されたものであることを示している。この平面図は建物の具体的な描写というよりは、ちょうどミースのドローイングの表現のように、建築家の設計上の思考を分かりやすく表すように抽象化されたものなのである。また次に中央部分に目を写すと、そこには写真やテクストによるコラージュが施されている。これらはそれぞれコートジボアールの文化を表すものであり、それらが併置されることによって、この建築にはコノテーションとしてコートジボアールの地域性のイメージが重ねあわされ、ある種の性格付けがなされているのである。そして最後に右端には、軸測図を用いた建物の図が描かれており、プランの直角性、グリッド性が強調されたこのドローイングによって、建物のプランが持つ秩序と機能性とが表現されている。このようなさまざまな<近代的>な表現方法の導入によって、このドローイングは建物以上のものを表している、ということができるだろう。デボラー・ネヴィンズの解説文の言葉を借りれば、

「この図面は、最終的な建築の構想を示した上に、構想を決定づけた物理的、文化的な要因をも示している。」65*

 <近代的ドローイング>はこのように、建物の物質的なデータだけではなく、建築家の構想やその構想の要因といったものまでも伝達することが出来る。こういったコンセプチュアルな、我々の用語でいえば<アンビルダブルな属性>を伝達出来るという特性は、もうひとつの近代的なメディアである写真に対しても、ドローイングの価値を確保するものであろう。写真はドローイングと同じく、雑誌等を通じて多数者への伝達をすることが可能であるし、もし<古典的ドローイング>のように建物の像の再現を目指すだけであれば、写真の方がより正確であり、また(制作の手間や複製可能性からいって)より便利でもある。しかしたとえそうだとしても、<近代的ドローイング>の場合には再現性だけを目指すのではなくて、抽象化された表現によって、より明確に建築家の意図を伝達出来るという点において写真とはまた違った機能を果たしうるのである。あるいはまた逆の言い方をすれば、あたかも写真の登場によって絵画が再現的なものから表現的なものへと向っていったように、<近代的ドローイング>における<アンビルダブルな属性>の伝達は、写真という媒体との対決の中で、ドローイングが自らの存在意義を保持しようとする努力の中で開発されたのだともいうことも可能かもしれない。

 スサーナ・トーレのドローイングは<近代的ドローイング>の表現を取り入れた際立った一例であるが、現在描かれるドローイングは多かれ少なかれ、<近代的ドローイング>の表現を使っているといって良いだろう。ただし勿論、ドローイングのすべてが<近代的ドローイング>に取って代わられてしまったわけではない。<古典的ドローイング>もまた今なお健在である。施工用のドローイングは現在も従来通り「客観的」に正射図法によって描かれているし、外観の提示としては再現的な透視図もまた相変わらずポピュラーなものである。ただ<近代的ドローイング>が登場したことによってドローイング表現の幅が広がったことは確かで、建築家はその中から目的に応じて異なったタイプのドローイングを選択するのである。雑誌『progressive Architecture』のドローイングに関する特集記事にある以下のような文章は、現在のドローイングのあり方を示すものとして興味深い。

「「クライアントは大抵再現的なプレゼンテーションをみたがる」ということをRalph Johonson of Perkins & Will社は認めている。そして多くの事務所と同じく、一揃いの現実的な遠近法的ドローイングをクライアントのために作り、それとは別により抽象的で、図式的なものを出版用に作る。」(66*)

 「クライアント」に対しては再現的な透視図を用い、public(出版、公衆)に対しては「より抽象的で、図式的なもの」をつくる、といったように、ドローイングがその伝達の相手によって表現を異にするという事実は、本論においてなされたドローイングの伝達機能に関する議論と一致するものであり、また<近代的ドローイング>を不特定多数に対しての伝達として位置づけた本章の分析を裏付けるものでもある。

 以上述べたように、20世紀に入り、「近代建築」と共に新たに登場した<近代的ドローイング>は、建物の実現よりも建築家の意図や建築的なコンセプトを伝達することを目的として描かれていた。このような変化は、近代建築において<建築>という行為自体が単に建物を建てるというのみではなく、コンセプチュアルな次元の提案へと拡張されたことを示している。そしてまた<近代的ドローイング>は、そのような<アンビルダブルな属性>を伝達するために様々な新しい表現を模索し、開発してきたのである。そしてその結果、建物によっては不可能な伝達を可能にするものとして、ドローイングは建物以上の価値を持ちうるものとなったのである。


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59* Le Corbusier, Vers une architecture, p.85
60* コルビュジェ『東方への旅』,p.221
61* ibid., p.113-114
62* グルッポ7の第三論文『建築III 準備不足・無理解・偏見』の次のような一節をみればその影響関係は明らかである。「建築家は、機械の精神にもギリシャの精神にも(多分この二つは同じものであり<新精神>を表している)関係している、この新しい幾何学に根本的なトーンを与えなければならない」(八束はじめ編「近代建築史資料 イタリア建築1926-1943:論文十題」, p.57
63* コロミーナ『マスメディアとしての近代建築 アドルフ・ロースとル・コルビュジェ』原註(3), p.226
64* ibid., p.147
65* ネヴィンズ『建築家の目』, p.156
66* Fisher, “PRESETING IDEAS”, Progressive Architecture, 6:89, p.88


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