『建築家のドローイングにみる<建築>の変容 −−ドローイングの古典、近代、ポストモダン』 14

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4. <ポストモダン・ドローイング>の機能 ――建築の解体


 (歴史的区分としての)「近代」の後、哲学や他の芸術領域におけるのと同じく建築の分野においても、「ポストモダン」と呼ばれる時代がやってきた。そしてこの時代以降、建築に関する観念や価値観はますます多様化している。

 「ポストモダン建築」とよばれるものに対する評価は未だに一定していず、またその定義も明確ではない。それは様式的に一括りに出来るものではないし、またムーブメントとして必ずしも自覚的な共通性を持っているものでもない。それらは「近代建築」なるものに対して批判的な態度を持っている点では共通していると言って良いだろうが、そもそも「近代建築」自体が特定の様式というよりある幅を持ったムーブメントであったために、それへの批判のポイントの違いによって、多種多様な「ポストモダン」のあり方がある。あるものは「近代建築」の単純さを批判し装飾を過剰なまでに施すかと思えば、あるものはその機能主義や合理主義的傾向を批判して、古典建築の折衷的模倣によってシンボリックな意味性を復活させる。またあるものは「インターナショナル・スタイル」とも呼ばれる近代建築の普遍主義的傾向に反対し、地域主義を唱え、ヴァナキュラーな建築様式を提示する。

 しかしまた、このような個別的な様式上の批判に留まらず、ポストモダンの建築は概して、<建築>のあり方自体をラディカルに問い直そうとする<批判>のモメントを持っている。それは建築の自律性や自明性を問い、それを解体しようとする。<建築>の既成の秩序や固定概念を再度疑問に付し、試し、またその限界まで行こうとする。

 ウンベルト・エーコは1965年に「芸術作品のメッセージは常に曖昧なもので、たとえ一つのシニフィアンであっても・・・多種多様なシニフィエをもつことになる。今日こういった曖昧さは作品の掲げるはっきりした目的となり、まず第一に優先されるべき価値となっている」と述べたが、これはポストモダンの時代の芸術の特徴を明快に言い当てている。そしてポストモダン期の芸術がそのような「曖昧さ」を目指すことは、何よりも既成概念への批判的意識の現われなのである。エーコはまた「曖昧さを価値に仕立て上げるための今日の芸術家達はしばしば作品の無定形性・無秩序性・偶然性・不確定性に頼っている」(67*)とも述べているが、このような「無秩序性」や「不確定性」といったものは、近代まで目指され、作り上げられてきた秩序や一義性に対する批判として選択されたものに他ならない。

 ポストモダンの時代の建築家はこのような批判的意識から、<建築>イコール建物を建てること、というような伝統的な考え方や、建築は合理的・機能的なものでなければならない、とする近代的な理念などに対して攻撃を加える。そしてその時、建築家が批判の手段として用いる第一の武器として、ドローイングが手に取られるのである。

 このようなドローイングは、勿論建物を表す為に用いられているものではないし、また前章で述べたようなコンセプトの提示のためのものでもない。そうではなくて、それは自ら<建築>を批判し、そのあり方を問うひとつの疑問符として描かれるドローイングなのである。


 4-1. ベルナール・チュミのドローイング

  4-1-1.『マンハッタン・トランスクリプツ』

 「デコンストラクティビズスト」の建築家として知られるベルナール・チュミ(1944-)の『マンハッタン・トランスクリプツ』は、新しい建築のあり方を提示したドローイングとして注目を浴びた。このドローイングはかなり独特なものであり、これまでにあったどのようなドローイングとも違った形で描かれ、建築の新たな可能性を模索するものである。このドローイングは建物の建設に関わらない完全に理論的なプロジェクトであり、またそれがごく初期のものであるとはいえ、チュミの今にいたる建築活動の根幹を形成する、非常に重要な作品であることに間違いはない。アカデミー版の最終ページには「『マンハッタン・トランスクリプツ』において展開した主題はその後の我々の作品の多くを明らかにしている」(68*)とわざわざ明記されている。また日本で行なわれた2000年のセミナーにおいてもチュミは「『マンハッタン・トランスクリプツ』は1970年代後半の計画ですが、私自身が建築を一種の理論的な探索の道として見ていく上できわめて重要な存在です。」と述べている(69*)。

 1981年に発表されたこのドローイング集は数十枚のドローイングから成り、MT1「PARK」、MT2「STREET」、MT3「TOWER」、MT4「BLOCK」という4つのセクションに分かれている。各セクションの扉には小節のようなテクストが付せられ、それぞれのドローイングは、コラージュされた写真と透視図や軸測図、ダイヤグラムなどの組み合わせから成っている。チュミによればこれらの要素はそれぞれに異なった領域を表すものであり、写真はある人の「行為(アクション)」や「出来事(イベント)」を、透視図や軸測図で描かれた建物の像は「空間」を、実線や破線のベクトルが示されたダイヤグラムは「運動」を、それぞれ示しているという。

 MT1「PARK」はニューヨークのセントラルパークを舞台としたドローイングで、暗示的な写真と公園の配置図、人物の動きを表すベクトルの図が1セットとなって、漫画のコマのようにあるストーリー性を持って進んでいく(図28)。

MT2「STREET」では建物の断面図や平面図が描かれ、上部に写真を付されたストリートマップの中を、動線のベクトルが縦横に貫いて駆け抜ける(図29)。

MT3「TOWER」では軸測図法で描かれた5種類のタイプの室が、運動のベクトルと落下というイベントによって様々に変容していく様が描かれる(図30)。

 最も興味深いのがMT4「BLOCK」のドローイングである。この章ではまず始めに「空間」、「運動」、「出来事」が1セットとして縦に三段組で提示される(図31)。

そしてこれらの組は平行して水平方向に展開していくのだが、先に進むにしたがって、「空間」「運動」「出来事」の連関が様々にずらされ解体されていく。そして最終的には、「空間」の透視図の中に「出来事」や「運動」が混入し、それら3つの次元が入り交じった独特の空間が立ち現れることとなる(図32~34)。

時間的展開を導入するフィルムのコマのようなフレームが示唆するように、これらのドローイングは映画の表現に着想を得たものである。(「『トランスクリプツ』の時間性は不可避に映画のアナロジーを示唆する」(70*)。)そしてそこに現れる像もまた、「反復」、「重ね合わせ」、「歪曲」、「解消」、「挿入」などの映画的手法によって変形されていく。それらは「ミックスされ、重ね合わされ、フェイドインされ、カットアップ」される。

 様々な要素が絶えず入り乱れつつ紡がれていくこのドローイングはかなり難解なもので、そこに描かれているものが何なのか整合的に読み解くことはほとんど不可能にも思える。そのなかに描かれる建物や空間はまるで生き物のように形を変えていき、夢の中のように表象が歪んでいくのである。その奇妙な見た目だけからいっても、このドローイングはこれまでに見てきたどのドローイングとも全く異なっている。いったい、このようなドローイングが意図されているものは何なのだろうか。そもそもこれは建築的な試みであるのか?

 一言で言えば、このドローイングは、自律的に存在すると考えられてきた建築に対する批判の提起、侵犯の試みである。チュミはこのドローイングの意図を次のような言葉で語っている。

「『トランスクリプツ』は空間、運動、出来事が独立なものとしてありつつも、お互いに新しい関係にあるような建築の異なった読みを提供しようとするものであり、その結果建築の慣習的な要素は打ち崩され、別の軸に沿って作り直される。」 71*

 「慣習的な」<建築>のあり方に対する批判、「建築の異なった読み」の提案であるというチュミの主張を受け入れるとすれば『トランスクリプツ』はその意味において建築的行為として捉えられねばならず、単なる絵画やイラストレーションとは異なったものと考えられなければならない。しかしそれをたとえ建築的行為として受けいれたとしてもなお、我々はこのドローイングを前にして、それが果たして建築ドローイングといえるのかどうか確信を持てず、不安な気分にさせられるに違いない。しかしながら、このドローイングのテーマは正にこの不安にこそあるのである。それは平面図、立面図など、軸測図などといった建築的図法の使用によって、自らが建築的ドローイングであることを示唆しはするのだが、しかし同時にまた一方で、写真やダイヤグラムなどといった異物の混入によって従来のドローイングのあり方を逸脱し、それによって我々を困惑させる。異物によって引き起こされるこの困惑は、しかし裏を返せば、我々がそれらを異物として捉えるような枠組みに基づいて思考し、それに慣れていしまっていることの結果であり、建築を特定の領域(多くの場合建物の形態に関する事柄)に限定し、それのみで自律的に建築が成り立つと考えるような慣習的な先入見に従っていることの現れなのである。チュミは異質な、新たなドローイングを提示することによって、そのような慣習を正に打ち破ろうとする。

「平面図や断面図、軸測図がいかに正確で生産的なものであろうとも、それらは、建築をそこに表されるものへと論理的に還元してしまうことを含意し、別の関心を除外してしまう・・・そのような限界を超えていこうとするいかなる試み、建築の別の読みを提起しようとするいかなる試みもこれらの慣習を疑問視することを要求する。」72*

 『トランスクリプツ』は、こうした「慣習」に対する批判と<建築>の「限界」の探求の試みであり、それは従来のドローイングにおいては「除外」されてきた新しい次元、すなわち運動やプログラムなどといった行為的な要素を含んだノーテーションによって、<建築>を脱構築(デコンストラクト)することを目論むのである。

「運動やプログラムを建築的図式全般に対して挿入することは、伝統的な建築の要素のいくつかを崩壊させる。」73*


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67* エーコ『開かれた作品』青土社1984
68* Tschumi, The Manhattan Transcripts, p.
69* AICA現代建築セミナー第45回チュミの「VECTORS AND ENVELOPES」講演資料より。http://www.aica.co.jp/seminar/semi_45.htmlを参照。
70* Tschumi, The Manhattan Transcripts, “ILLUSTRATED INDEX THEMES FROM THE MANHATTAN TRANSCRIPTS”, XXVII
71* Tschumi, The Manhattan Transcripts,, p.7
72* ibid., “ILLUSTRATED INDEX THEMES FROM THE MANHATTAN TRANSCRIPTS”, XX
73* ibid., p.9



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