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「教養としてのアート」を問い直す 〜アート思考のための「ソウゾウ的鑑賞」のすゝめ

お疲れさまです。uni'que若宮です。

今日はアート鑑賞について。

「アート思考」がちょっと流行って、ビジネスパーソンの間でもアート鑑賞をするイベントやサロンのようなものも増えてきました。

これまでの日本のアートの状況を考えるとビジネスパーソンがアートに触れる機会が増えることは本当に喜ばしいことですが、「アートくらい語れなきゃ、一流のビジネスパーソンじゃないよね」的な「教養としてのアート」にはずっと違和感も感じています。


「知識」的鑑賞 〜「教養としてのアート」? 

僕が「教養としてのアート」の何に違和感を感じるか、改めてちょっと言語化してみます。

そもそも「教養」とはなんでしょうか?wikipediaで引くと次のようにあります。

一般に、独立した人間が持っているべきと考えられる一定レベルの様々な分野にわたる知識や常識と、古典文学や芸術など質の高い文化に対する幅広い造詣が、品位や人格および、物事に対する理解力や創造力に結びついている状態を指す。


一定レベルの様々な分野にわたる知識や常識」とあるように、教養にはまずは「知識や常識」としての側面があります。

おそらくここに違和感の原因があります。それはビジネスパーソンのアートへの触れ方として、アートを「体験」しようとするのではなく、アートを「知識や常識」として身につけようとする傾向が強いことです。

たとえばアート思考関連のイベントでなにかアート作品をとりあげると、「あーあれね、知ってる知ってる」という反応をされる方がとても多いのです。そういう反応に出会う度、アートを「知る」こと自体は悪いことではないものの「あーこれ、〇〇の作品だよね」と薀蓄を語れることは”アート思考的には”ほとんど意味がないどころか、むしろ危険だと思っています。


日本の美術教育の「お勉強」的な傾向の影響もあってか、美術館にいくと、日本人は作品そのものよりもキャプションを読んでいる時間の方が長い。

(後ほど述べるようにキャプションも本当は大事ですが)しかし作品よりキャプションの「情報」がメインになり、作品にじっくり対峙する時間もないままに「知識」を持ち帰って満足することは、アートを体験する機会をむしろ減らし、アートを消費することにつながる懸念があります。


このような「知識」主義は「偏差値」や「意識」の高いビジネスパーソンに強く、中にはアートの「知識」を使ってマウント(「え、なに、デュシャンも知らないわけ?」)するような人すらいます。自分なりの探求をするのではなく、借り物で武装し優越しようとするスタンスは、「知識や常識」を脱して「自分起点」で価値をつくりだす「アート思考」のモードとはおよそ真逆だといっていいでしょう。


「感覚」的鑑賞 〜アートは「直感で感じろ!」? 

一方、こういった「知識」的鑑賞の対極に、極端に「知」を否定する「感覚」的鑑賞の立場もあります。「アートは頭で理解できるものではなく直感と感覚で感じるものだ!!」というのがそれです。

たしかに、アートは頭だけで理解できるものではありません。視覚をはじめ、五感を駆使して感じる部分も多く、アートに触れることは日頃は使っていないそういった感覚を磨くことにもつながります。

しかし僕は、アートの「感覚」的鑑賞にもすくなくとも2つの問題があると思っています。


1つは、「知的な面白み」を捨象してしまうことです。たとえばアンディーウォーホルの『ブリロ・ボックス』のような作品を「直感」「感覚」だけを使って体験することはできません。

なぜなら感覚的刺激としては、ウォーホルがつくった(段ボール箱とあえてそっくりにつくった)『ブリロ・ボックス』はブリロ社の物流用ダンボールと変わりません。この作品の「面白み」を体験するにはコンテクストやシチュエーションへの知識や情報とその理解が必要です。


また、「直感」「感覚」主義には2点目の弊害があります。それは、「美」や「快」偏重になることです。

アートは直感!という人の多くが、アートに美的快感を求める傾向が強いように思います。しかし、アートとはかならずしも直截的に「美」や「快」を感じられるものばかりではありません。長年アート哲学において議論となってきた「悲劇のパラドクス」にみるように、アートには、「直感的には心地よくないもの」も含まれるからです。

(「ビジネスにアートの力を」とよく言われますが、その実アートとデザインが一緒くたにされ、「オシャレ」とか「キレイ」をプロダクトにちょっと足す、みたいな意味で使われていることも多い気がします。「美」を付加価値としてプラスしたり単に心地よい見た目にしたり、五感で感じられる楽しいものをつくる、というだけならそれはどちらかというと「(意匠)デザイン」の話で、わざわざアートを、という必要はありません)

よくピカソやマティスの例を出しますが、現在「美の巨匠」と呼ばれているアーティストの作品も最初から「美しい」と評価されたわけではありません。それどころかむしろそれらは最初は「まったく美しくない」と酷評されたのです。そこには直感的には「醜い」と思われるようないびつさが含まれており、それによって引き起こされた論争によってむしろ「美」自体の価値観を批判的に拡張しました。


このような価値観の変容や拡張があること自体が、アートの価値が「直感」や「感覚」に還元できないことを示しています。アートの価値は感覚的・直感的な「美」に留まらず、むしろ常識や知識自体を揺るがす「葛藤」にあると僕は考えていますが、「葛藤」とはむしろ高度に知的な体験なのです。


「ソウゾウ的鑑賞①」のすゝめ

こちらの絵を目にしたことはありますでしょうか?
エドワール・マネの『オランピア』という作品です。あなたはこの絵をみてどう感じますか?

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(wikipediaより、 Pubric Domain)

「美しい」「上手い」という感想も抱く方も多いでしょう。


しかし、この絵は発表された当時、ものすごい物議を醸した作品です。

今の時代からみるとそれほどびっくりはしませんが、歴史画や宗教画など絵画の主題に格調高さが求められ、実在の人物の裸体を書くことがタブーとされていた時代に、「娼婦」をモデルとしてヌードを描き、黒人の召使いを登場させた。「美」を挑発する態度と人種を扱う社会的テーマの「美術」は大スキャンダルといっていい騒ぎになり、美術関係者やパリ市民は激怒!!!怒りのあまり絵に傘で破ろうとした人すらいたという逸話が残っています。

しかし今現在、この絵をどれだけ眺めていても、この作品のそのような挑発的な性格や、社会の常識を揺るがすモーメントを感じることは出来ません。作品が置かれていた時代背景や美術史的な知識があってはじめて、そのラディカルさがわかるのです。

さきほど「キャプションも本当は大事なのですが」といいましたが、それはこのように作品のつくられた時代やその批評空間を「想像」する手がかりとして重要だということです。その作品を、現代に存するものとしてのみならず、当時の状況を想像し「その作品が生まれたところ」を想像しながらみる。そのような「想像」的鑑賞によって、そのインパクトを追体験することができる


「教養としてのアート」を好む人はしばしば「近代」までのアートを好みがちです。アートを「大人の嗜み」として好みつつも、どこかエリート主義的であり、保守的な傾向すらあるように思います。アートを「上品な趣味」として扱い、「現代アート」はあまり好まない、とくに常識に抗うものや政治的なメッセージには眉をしかめる、というような人が存外に多いのです。

しかし、マネやピカソを始めとして、そういう人が「教養」としてありがたがって観ている近代の巨匠も、当時は「だいぶやべえ人たち」だったわけです。全然上品じゃない。生活面でも常識はずれな人も結構いて、不倫から薬物から傷害事件から(今そういうのが出たらアーティストは叩かれまくりますが)ヤバいエピソードがたくさんあります。知や美を求める「教養としてのアート」の人たちは、彼らがしたり顔で薀蓄を語っている「巨匠」たちともし同時代にいたら、侮蔑や嘲笑を向けるのではないでしょうか。

あいトリで物議を醸した政治的メッセージであれ、ろくでなし子さんのように性的なそれであれ、「現代アート」にはいかがわしさがあります(ちなみに僕は「社会的メッセージ」をアートの要件だと思ってはいませんが)。いまとなっては「美」の範疇に入れられる近代の巨匠アーティストも、同時代ではまさにいかがわしい存在だったのです。


デュシャンが『泉』を提出した時のヤバさは、現代のわれわれにとってはだいぶ薄まってしまっています。当時のアート・ワールドの中で『泉』を提出したラディカルさ、それと切り離して「あーデュシャンっていいよねー」とかいうのでは単なる消費になってしまいます。

当時の社会的・アート的な制約や常識を想像すると、相当にヤバいのです。社会や会社で評価される「エリート」ではなく、怒られたり干されたりを覚悟でブッ込んでる感じです。ですから、『泉』の鑑賞としては「デュシャンパイセンやべえな、、、まじか、、、H江さんとかT端さんとかM澤さんとかよりやばくねえか、、、」とヤバさを感じられると最高です。「知ってる」ことよりそういう「ヤベえ」アートの「強度」を体験することこそが重要だと思うのです。


「ソウゾウ的鑑賞②」のすゝめ

「知ってる」系の作品としては、ジョン・ケージの『4分33秒』もあります。

ご存じない方に一言で説明すると、『4分33秒』は「音のない音楽」です。(厳密には「音のない」ではないのですが…)


ジョン・ケージが書いた楽譜は以下のようなもの。

I
 TACET
II
 TACET
III
 TACET

日本語に訳すと

第1楽章
 休み
第2楽章
 休み
第3楽章
 休み

という感じです。


これも単に「知識」と扱ってしまえば、「演奏しないっていう発想が斬新だよね」という「薀蓄」や「トリビア」の類で終わってしまいます。実際、多くの人が『4分33秒』を聴いたことがなくとも、「知ってる」というだけで満足してしまいます。


ここで1つ問題です。

はたして、ジョン・ケージは、この曲をなぜ『4分33秒』にしたのでしょうか?


上記の楽譜には「TACET(音を出さない)」としか書かれていないのですから、この楽譜からいえば曲の長さは1分でも、2時間でもいいはずです。単にこの曲が「無音という発想」勝負なら、曲の長さはどうでもよいとも言えます。

『4分33秒』は、第1楽章が33秒、第2楽章2分40秒、第3楽章が1分20秒で合計4分33秒と言われています。なぜ、ケージは作品を『4分33秒』にしたのでしょうか?『3分きっかり』や『5分20秒』ではなく?そこに意味はあるでしょうか?ちょっとだけ時間をとって考えてみてください。


・・・・・・・

種明かしをすると、この作品は実は『4分33秒』と決められていたわけではなく、ケージはそれをタイトルにすらつけていません。演奏を4分半くらいにする、は意図されていたかもしれませんがたまたま初演での演奏時間が4分33秒だった、それが通称になっただけなのです。


なんだ、大して意味ないのか、と思われるかもしれません。しかし、本当にそうでしょうか?これが『4分33秒』である必然性はないのでしょうか?もし『1分きっかり』や『2時間30分』なら体験は変わるでしょう。あるいは『4分35秒』ならどうでしょうか?それは同じ作品と言えるでしょうか?

アート作品に向き合う時、このように「なぜ作品はそのようになったのか?」を考えるととてもおもしろいです。「創造」的鑑賞、つまり「つくるように味わう」という鑑賞です。

たとえば絵画を鑑賞する時、こんなふうに自分に問いかけてみてください。

「この絵の線は2mm右でもよかったのではないか?」「自分ならタイトルをつけるならどうつけるか?」「どこかを修正するならどうする?」


作者になったつもりで作品に向き合うと、不思議な感覚が芽生えます。

いかようにもありえたのに何故この作品はこのようでなければならなかったのか?

『4分33秒』がそうだったように、制作の過程には偶然性もはいりますから、必ずしも「作者の意図」によるとは限りません。

「あらゆる作品は、他のあらゆる形でもありえた」という「可能性の束」とともにアート作品と向き合うと、「無限の可能性の中でたった一つその作品に結晶した」という奇跡のような確率に深い感動が湧いてきます。


「教養」ふたたび

巷の「アート思考ワークショップ」では絵を描いたりしますが、実際にアート制作をするかどうかに関わらず、アーティストの思考をたどり、「自分だったらどうつくるか」という観点でアートを鑑賞してみるだけで、無限の可能性の中に一つの選択をしていく、という豊かでスリリングで目眩のするような、深い体験をすることができます。

僕がアート思考において重要だと考える概念に「触発」というものがあります。

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岡田猛教授らの研究によると、美術専攻学生は一般学生に比べ「触発」の頻度と強度が1.5倍ほど高い、ということがわかっています。これは「つくる」というスタンスで作品や世界に向かっていると、より深く作品や世界を体験できる、ということを示しているように思います。「ソウゾウ」的鑑賞はアートの面白さを知り、その価値を深めることができるのです。


最後に改めて、最初に引いた「教養」の定義に戻ります。

一般に、独立した人間が持っているべきと考えられる一定レベルの様々な分野にわたる知識や常識と、古典文学や芸術など質の高い文化に対する幅広い造詣が、品位や人格および、物事に対する理解力や創造力に結びついている状態を指す。

「知識や常識」「造詣」は挙げられていますが、丁寧に読んでみると「創造力に結びついている」限りにおいて「教養」である、ということが読み取れます。


重要なのは「創造力」です。

単に「知識や美の規範」として上品にアートを学ぶのはちょっともったいない、と僕は思います。アートはもっといかがわしく面白いものです。「やべえ」ものであり、だからこそ、イノベーションのためのモードなのです。

そういう意味では、アート鑑賞は「教養」よりは「冒険」に似ていると僕は思います。自身の常識を離れ、未開の地に入っていくようなワクワクとドキドキがあるのです。

知識や美からもう一歩踏みこんで、「想像(ソウゾウ①)」し、「創造(ソウゾウ②)」するアート鑑賞の冒険をしてみませんか?


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起業したいひとのためのアートシンキング(5) (2)




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