記事一覧

シナルの魔術師たち

 自動機械通訳を通さない声が、楊の耳朶を打った。 「取っておいてくれたのか」  懐かしさを多分に含んだ声だった。自動通訳ではこの響きを訳すことは出来なかっただろう…

大塚葛
9か月前
16

ヒュドラを運ぶ

 礼成江の水を飲んでしまったのは、康明を運び終わった時のことだった。  泥の混じった水の匂いが、喉奥から鼻へ抜けていく。岸に掴まり咳き込んでいると、「母さん!」…

大塚葛
9か月前
26

ケイトが2つになるまで

 長く絶縁していた父の遺品のアンドロイドが、血とリーズの雨に濡れて墓所に立っている。  女の形をしたそいつはこちらを向いて、大きな黒い目を見開いた。片時も離さな…

大塚葛
1年前
18

背番号74の叫び

 ミイトキーナの曇り空を、手榴弾が飛んでいく。黄色いから、連合軍のMKⅡを稲尾が投げ返したのだ。どんなに疲れ果てていても、MKⅡが敵陣のど真ん中へ飛んでいくのを見る…

大塚葛
1年前
33

旗片の風

 浅草奥山の楊弓場に、男が軍靴の音高らかに足を踏み入れた。一様に振り返った客も女たちも、男を見るなり阿呆の様に固まった。黒黒とした外套も、星煌めく制帽も、この場…

大塚葛
2年前
45

蒼天を殺す

「白沢(はくたく)様を呼びましょう」  昭(しょう)が言った。子を喪ってから初めて口にした言葉だった。  張(ちょう)は弟達に小声で「はくたくってのは、一体誰だろう?」…

大塚葛
2年前
17

鍵のバルカン

 トラックの下を歩いて国境を超えるよりも、ホロの中で息を止めている方が、僕にとってずっと楽なことだった。  小さい頃、父が足を怪我して働けなくなった。食っていく…

大塚葛
2年前
28

恐竜の恋人

 6000万年の時を経て、1匹のケツァルコアトルスが目覚めた。  彼女は探検が好きだった。巨大な翼で空を飛び、知らない土地に降り立って、四つ足で歩き回り、見たことの…

大塚葛
3年前
19

毒娘ビーチェ

 吐息だけで人を殺す女を探してほしい。そんな依頼だった。そいつのせいで俺は今、路地裏で背中をグッサリやられている。   「捕らえるのはこちらがやる。お前がやること…

大塚葛
3年前
8

さよならだけを人生にしたい!

 故・高杉晋作の愛妾、おうのは湯呑を叩きつけて叫んだ。 「あのマニピュラティブ糞野郎共!」  恨みの籠った叫びに笑ったのは、故・坂本龍馬の妻、お龍である。現在は西…

大塚葛
3年前
45

ヘルツアー・ウィズ・ネームレス

「やあ! アンタ、洗礼名持ってない? 良かったらオレにくれないか?」  地獄の門の前で俺に声をかけたのは、ニコニコと屈託なく笑う男だった。 「善行ばかりの人生だっ…

大塚葛
3年前
19

此節百物語蒐集~女、唇を盗られる事~

「人になぜ唇があるのか知っていますか?」  女が唐突に言った。  僕は少し考えるふりをして、「分からない、キスをするため?」と答える。薄暗いビルの一室、僕たちが座…

大塚葛
3年前
12
シナルの魔術師たち

シナルの魔術師たち

 自動機械通訳を通さない声が、楊の耳朶を打った。
「取っておいてくれたのか」
 懐かしさを多分に含んだ声だった。自動通訳ではこの響きを訳すことは出来なかっただろうな、と楊は思った。耳を覆っていたデバイスは、足元で無残に踏みつけられていた。
 紘一の視線の先、楊の後ろにある本棚には、ブリタニカが整然と並んでいる。百年ほど前に最後に出版された書籍版だ。紘一が去る時に、この家ごと楊に残したものだった。

もっとみる
ヒュドラを運ぶ

ヒュドラを運ぶ

 礼成江の水を飲んでしまったのは、康明を運び終わった時のことだった。
 泥の混じった水の匂いが、喉奥から鼻へ抜けていく。岸に掴まり咳き込んでいると、「母さん!」と昭一が、ひしと腕を掴んできた。
 岸に上がる。昭一はおんぶ紐を解き、康明を抱きかかえる。先程から泣き声一つ上げない。口元に手を当てると、微かな呼気が手のひらに触れる。しかし、目を閉じて、ぐったりとしている。
 急がなくては。まだ弘子と啓子

もっとみる
ケイトが2つになるまで

ケイトが2つになるまで

 長く絶縁していた父の遺品のアンドロイドが、血とリーズの雨に濡れて墓所に立っている。
 女の形をしたそいつはこちらを向いて、大きな黒い目を見開いた。片時も離さなかったというその機械を、墓前で壊してやったらさぞ胸のすくことだろうと思っていたのに、俺は立ち竦んだ。女の前にある墓石には、頭の潰れた死体が覆い被さっていた。
「ジャズ、来てくれたんだ」
 女がこちらに駆け寄ってくる。喪服の映える石膏の肌に、

もっとみる
背番号74の叫び

背番号74の叫び

 ミイトキーナの曇り空を、手榴弾が飛んでいく。黄色いから、連合軍のMKⅡを稲尾が投げ返したのだ。どんなに疲れ果てていても、MKⅡが敵陣のど真ん中へ飛んでいくのを見ると、ぱっと心持ちが明るくなる。俺も少しでも力にならねばと思って、塹壕に屈み、九九式のピンに指をかけた。
 稲尾がいる方向から爆音が轟いたのは、その時だった。

 稲尾は職業野球の選手だった。
「選手は徴兵されないやろう」
「そんなご時勢

もっとみる
旗片の風

旗片の風

 浅草奥山の楊弓場に、男が軍靴の音高らかに足を踏み入れた。一様に振り返った客も女たちも、男を見るなり阿呆の様に固まった。黒黒とした外套も、星煌めく制帽も、この場にあまりに似つかわしくなかったからだ。
「ここに、決して矢に当たらない矢取り女がいると聞いた」
 朗々とした声に、店主が慌てて飛び出して、頭を下げて答える。
「へえ、確かに」
「その女に相手してもらいたい」
 もちろんでございます、と言おう

もっとみる
蒼天を殺す

蒼天を殺す

「白沢(はくたく)様を呼びましょう」
 昭(しょう)が言った。子を喪ってから初めて口にした言葉だった。
 張(ちょう)は弟達に小声で「はくたくってのは、一体誰だろう?」と尋ねたが、二人とも首を横に振る。村で学があるのは昭だけだった。
 建寧三年、冀州(きしゅう)の農民は貧困に喘いでいた。疫病が流行し、年寄りや子供は皆死んだ。時の帝が幼いことをいいことに、官吏達は肥え太る日々だという。
「白沢様は神

もっとみる
鍵のバルカン

鍵のバルカン

 トラックの下を歩いて国境を超えるよりも、ホロの中で息を止めている方が、僕にとってずっと楽なことだった。
 小さい頃、父が足を怪我して働けなくなった。食っていくために、僕はパキスタンに密入国してお菓子や煙草を運ぶ仕事を始めた。
 大人から品物を受け取って、パキスタンに入国するトラックの泥除けの下に潜り込み、歩いて密入国する。銃を持った大人達は僕たちに気付いてはいるが、子供だから見逃してくれる。入国

もっとみる
恐竜の恋人

恐竜の恋人

 6000万年の時を経て、1匹のケツァルコアトルスが目覚めた。

 彼女は探検が好きだった。巨大な翼で空を飛び、知らない土地に降り立って、四つ足で歩き回り、見たことのない植物や生き物を味わった。強そうな恐竜がやってきても、彼女はすぐに空に逃げることが出来た。空において彼女は無敵だった。
 彼女はある日、南へ南へ飛んで行き、やがて真っ白な大地に降り立った。そこには生き物はおろか、草一本無かった。
 

もっとみる
毒娘ビーチェ

毒娘ビーチェ

 吐息だけで人を殺す女を探してほしい。そんな依頼だった。そいつのせいで俺は今、路地裏で背中をグッサリやられている。
 
「捕らえるのはこちらがやる。お前がやることは、『捜す』『見つけたら連絡する』。それだけだ。それ以外は何もするな」
 『博士』と名乗った男はそれだけ言って通話を切った。指定されたロッカーの中にあったのは写真だけで、予想と違い平凡な女が写っていた。しかし、『俺』に依頼してきた時点で、

もっとみる

さよならだけを人生にしたい!

 故・高杉晋作の愛妾、おうのは湯呑を叩きつけて叫んだ。
「あのマニピュラティブ糞野郎共!」
 恨みの籠った叫びに笑ったのは、故・坂本龍馬の妻、お龍である。現在は西山ツルであるが、親しいものは彼女をお龍と呼ぶ。
「いっとう弱っていたんです! 本当は尼になんて!」
「そういう時ってあるよねー」
 十数年前、高杉は亡くなった。24歳だったおうのは、山縣有朋や伊藤博文に強く言われて出家した。彼らは高杉の愛

もっとみる
ヘルツアー・ウィズ・ネームレス

ヘルツアー・ウィズ・ネームレス

「やあ! アンタ、洗礼名持ってない? 良かったらオレにくれないか?」
 地獄の門の前で俺に声をかけたのは、ニコニコと屈託なく笑う男だった。
「善行ばかりの人生だったのに、洗礼を受けなかったからって地獄行きなんだ! あんまりだろう?」
「他人の洗礼名で天国に行けるのか?」
「できるさ! 死ぬ人間が増えて地獄はてんてこ舞いなんだ。未だにアナログ管理だしね」
 頂戴と言わんばかりに差し出された手は白く綺

もっとみる
此節百物語蒐集~女、唇を盗られる事~

此節百物語蒐集~女、唇を盗られる事~

「人になぜ唇があるのか知っていますか?」
 女が唐突に言った。
 僕は少し考えるふりをして、「分からない、キスをするため?」と答える。薄暗いビルの一室、僕たちが座る椅子とテーブル以外何もない部屋に、思った以上に声が響いた。
「一説では人間が火を扱うようになったから、と言われています。熱いものを口に運び、火傷しても良いように、再生しやすい外皮に変化した、とする説です。また、唇が出来たことにより、発音

もっとみる